図書館で借りた
禅の歴史についての本
 (滋賀県出身の著者)
についての素人感想

先日、スマホの画面の調子がよくないときに
図書館に本を借りにいきました。
その本を
朝ちょこちょこよんでいて
今朝よみおわりました。^_^

禅については素人ですが、感想をかきます

かんたんにいうと
禅は
すでにあるこの意識が悟り
みたいな
感じ
という印象をうけました。

たとえば
修証一等(曹洞宗の道元禅師)
修行してる最中も、悟ったときも
意識の量にかわりはない
ということかな、ておもいました。

だから、それに気づいてない場合も
生き仏とはいえますが

そのことに気づくときの生き仏
の場合には

生き仏(体)
からあらわれる働き(用)は
気づくまえとはちがってくるのかもしれません

したがって
煩悩が即菩提というのは
まちがっています
癒されたらば菩提ですね


平常無事 
(在るがまま、ナチュラルのなかの
現象にすぎない)

仏の正体
(無努力、ただ在る)

自分というものは つかめない
(分けられない 分からないでOK)

凡と聖は、ただの概念
(私と神や仏はただの概念 
概念形成する
努力
以前のナチュラルが実在)

私は実在しないのでコントロールしなくてよい
私、世界は実在しない

真実はなにもしなくてよい
(にもかかわらず、オートマチックに
個や主体化催眠がおきて、コントロールや私の世界が
幻想として おきていた 誤創造)

私は何かを証明しなくてよい
私はおらず、
価値を証明してあげる相手や神もただの概念
(裁き、カルマの妄想世界)

意識をフォーカスする以前に
なんとなくもうすでにある意識
それが
ひとつの実在(だれもわかれていない)
努力によってひとつに成ろうは幻想

沢庵和尚
 不動智神妙
対象に とどまらず 活動できるし
 不動のただ今が在る(みずからが不動尊)

二つ目の今(私)は実在せず
三つ目の今(五感、心理など対象)
も実在しない

蓮の華が開くように
花びらは癒された何層もの幻想の殻(花びら)のようである
そして実在はただ在る

ほんとうの一休の頓知(とんち)
とは
いまここ
である

なにごとも きめつけなくていい
「」は ありえない

極楽浄土は ただ今のこと

教外別伝
なぜなら
主体、客体(教え、学ぶものではない)
ナチュラルの在るがままだから

一念(努力)を実在としなければ
平安

月(客体)ではなく示す指(主体)でもない

主体以前の 在るがまま

本来無一物
(私はいない)

生死の波も涅槃の海も、
ただの水である

一切は不生で調う(癒される)
いつもある自然精神統一からの
オートマチックの終焉である


よくある禅のパターンについて
考え事(悟りたい、という概念も含めて)
 基盤ではなくて
 禅師は、遠くの鐘の音や、不意のカラスの鳴き声で
雑念へのフォーカスからはずれ
すでに在る意識(リラックス)に気づくことが多いようである
すでに在る意識のなかに
五感や心理という無常がオートマチックにあらわれていただけであるので癒される

以上
ナチュラルノンデュアリティからのオートマチックの終焉についてでした^_^