ノンデュアリティオートマチック全体像

シンクロニシティに気づくときの説明
たとえば
映画のエンディングテロップをなにげなく見ながら
 エンディングテーマ曲をきいていたりするとき
ふと急にテロップのある情報に目がいったり

もしくは
眼科の待合室で、ふと顔をあげて
テレビを見た瞬間
ちょうどのタイミングで

そこに自分と同じ名前の人物の情報が
ちょうどあらわれていることがあります

そういうとき
意識的に探したわけではない
(意識的視野の範囲にない)
のにもかかわらず、

瞬時に
その文字に(無意識的視野に入っていたところに
 目が先に動き
そのあと
シンクロニシティ情報に
意識が気づくことがおこります

さらには
この日常世界のレベルで
自分がつくっていないはず(つくれるわけがないのに 無意識的視野にもないのに)
意味のある偶然がおきることがあります。

シンクロニシティは個人的なことが多いため
あまりプライベートなことは語れませんが
わたくしの場合は
マスメディアをつうじてよくおこるので
メディア(映画やニュース)を共有できるときはmixiなどで興味深いのでシェアしてきました。
それは結局
生まれたときから大学生のときも
ずっとおきていたことに気づくのですが
(例では、ちはやふるのメッセージなどです。それに関連するカルタで有名な群馬県に事務局があるスピリチュアルとの出会いもそのひとつです。)
それらのシンクロは単発のようにみえることもあります、がそうではなく計画されたストーリーにみえてくることもありました。
いまだにその全容はわからないのですが。

つまり
何がいいたいかというと
形而上から意識にやってくるシンクロニシティ
というのは
なにかの計画から、投影(日常世界や六根 つまり五感や心理)としてあらわれてくるわけですが
それは
投影された世界や脳の反応などからはじまり
目がそれにたいして動き、
つぎに意識がそれに気づいているということです。
つまり投影された世界においては受動意識仮説のようなものです。
 仏教では色受想行識
の五薀(ごうん)に対応します。
色は物質的世界
受は五感による感受
想は脳の働きです
行は行動が起きることです。
識は意識的に気づくことです
(あくまで仏教素人の理解です)

このように五薀(ごうん)でわかるように
 なんと行のあとに識がきています
つまり
行動がさきで意識的になるのは後だということです

また、想が休んでいるときの識
つまりただの顕在意識でいる状態もあるでしょう
それも五薀の識にはいるとおもいます)

これにたいして
魂(形而上からきた小さな自我)の範疇にある意識もあります。
その意識は、五薀のさいごの識
に結されることにより
世界を肉体の中にいるように観察しています。

魂が身体、脳をはなれると
体外離脱の経験や多次元の経験
もしくは死亡といったことになります。

多次元世界については

(形而上の
無色界における最下層つまり
 空無辺処(アーカーシャ 虚空)
に用意されたアカシックレコード
によって)
  
  投影世界される
(四禅の天界である色界
 欲界つまり歓喜天から地獄までの世界

すなわち総じていわゆる六道世界)
 があらわれます。

ナチュラルスピリットの恩寵である聖霊により訂正されたアカシックレコードも
それによる
訂正された投影世界も
まだ自我(正確には半自我催眠つまり主体催眠)の範疇にあります

そして
アカシックレコードの台本がある
空無辺処というのは
そのうえにある
識無辺処の場の中にあります
(形而上の自我が最初につくった
    意識の場 のことです)

その識無辺処のそのうえには

自我 である無所有「処」
(主体化される催眠処理)があり

さらに九次第定(最後は九番目である覚醒)の さいごの手前に

八番目として
ナチュラルスピリットからの
最初の空想マインドである非想非非想「処」という形而上の個という夢がおきているのです

九次第定とは
覚醒(漏尽)のほかに

無色界の4つの処における状態
色界の4禅
があり
全部で覚醒もふくめ9つとなります。
(欲をはなれた色界の4禅とは、禅定のことであり
初禅では顕在意識における投影対象への尋・伺つまりフォーカス、調査状態
から
2禅 多次元顕在意識における対象なしの瞑想
3禅 多次元顕在意識における 喜捨
4禅 多次元顕在意識における 楽捨
となります
 そのうえの
形而上の潜在意識
つまり空無辺処にアーカーシャーレコードが
ある世界ということになります。

(仏教用語で修正し
書き加えてみた
 ノンデュアリティオートマチックについての
仮説です)