暑い暑いと思って生活していると、なんだかそうでもないくらいの気温でもクーラーをつけてしまいます。もし冬にその気温だったら、今日はあったかいなあ、なんて思いながら犬なし散歩をするんですが、今はその気温を「暖かい」ではなくて「暑い」と捉えてしまっているので、これは不健全だよなあ、と思ってしまいます。


↑ なにがいいたい???


今クーラーつけすぎて寒い。非健全。


今日はくどうれいんさんのエッセイ集『虎のたましい人魚の涙』に収録されているエッセイ『白鳥は夜でも白い』の話がしたいです。


正直『氷柱の声』であったり、毎年3月11日にくどうれいさんが投稿されているブログの話はだいぶ避けてきました。


もちろんその一言一句を僕はできる限り多くの人が読むべきだと思うし、なるべく多くの人に届いてほしいと勝手に思ってます。東日本大震災はそれくらい大きな出来事であり、どれだけ時間が経ったとしても次の世代へ伝えられていくべきものだと思います。


ですがそういった文章をこのブログで取り上げるからには、それに対する感想や自分の考えを付け加えて紹介する必要があると僕は思っていて、それをするには僕はあまりに震災から遠くありすぎます。


もちろん実際被害にあった人でないと震災の話をしてはいけないというわけではないですが、くどうれいんさんが「これを見ていない人間がなにをいってもにせものだ」というように、僕自身がどんなに「いいこと」を言ったとしても、それになんの信頼性もなく、一種のはりぼてのようなものになると思います。


というかそもそも『氷柱の声』のテーマのひとつがてこういうことだった気がします。






どこからどこまでが「語っていいひと」で、どこからどこまで「語ってはいけないひと」なのか、少なくとも僕が決めることではないですが、僕は絶対に「それを聞くひと」だと思います。


なので、こういった形でくどうれいんさんが3月11日について話してくれるのは、僕にとってとてもうれしいことです。


でもそういう感情こそがすごく失礼で、くどうれいんさんに責任の体重をかけるような感じでよくないですね。


最後の文章を読んでいて、くどうれいんさんも迷いながら何度も書き直しながらあの文章を書いたんだろうなあ、って思いました。



なんかどう言っても、くどうれいんさんの考えに反するような間違ってるような気がして、あんまりこれはくどうれいんさんに読んで欲しくないです。


もっと多くの人にくどうれいんの文章を読んでほしい。


寒い。