11月に飯能から名栗の有馬ダム(写真)を見て、秩父に行きました。秩父では、荒川左岸から上流へ行きながら河岸段丘や武甲山の景色(写真)を楽しみ、浦山ダム(秩父さくら湖)に行きました。
四五十年前、関東地方でもよく水不足がありました。室戸に行っていた4年前までの3年間にも香川や松山が水不足で困っていたときがありました。現在はペットボトルというものもありますが、昔の渇水についての恐怖感は大きなものがありました。それが、関東地方では十数年前から渇水の話をあまり聞かなくなったと思います。
私が小中学生の頃の埼玉県のダムと言えば奥秩父の二瀬ダムのほかは、名栗の有馬ダムをはじめ小規模なものばかりでした。中学生のとき自転車で二瀬ダムへ行って(朝霞から)大きくて驚きましたが、秩父市街地の比較的近くに浦山ダムという二瀬ダムより大きなダムができていたので行ってみました。
ダムについて解説する博物館のようなところがあり、1階の食堂のメニューにはダムカレーもあります。


リーフレットなどの資料をいろいろもらってきましたが、ほかにも2つ大きなダム(滝沢ダム、合角ダム)ができていました。かつての二瀬ダムより大きいようです。
自然のなかでの人工的な建造物はあまり好きではありません。ダムのために移転しなければならなかった方の苦労や悲しみもあったかもしれません。しかし、渇水や洪水を思い出すとありがたいものなのかなと思います。ダムに満々とある水を見ると、胸にいろいろな思いが上がってきます。
・・・以上は、1か月くらい前に思ったことですが、ブログに載せる気にはなりませんでした。今回載せる気になったのは、そもそも東京や埼玉は川を改良(人間にとって)することで自然災害が少なくなり安心して住めるようになった、ということに思い至ったからです。
江戸時代以前、利根川は江戸湾に流れていました。和田竜の小説『のぼうの城』で有名になった忍藩は石田三成に水攻めをされましたが、利根川の水です。その下流では荒川が合流していました。そういうことで、江戸時代以前、埼玉県東南部や東京23区東部はたびたび水害に見舞われる地でした。それが、江戸時代に家康の命で行われた、利根川を東へ、荒川を西へと両者の主な流路を振り分けたこと、さらに、昭和5年に荒川放水路を作ったことで水害はかなり減りました。国土交通省関東整備局荒川上流河川事務所のホームページには「荒川家康の命を受けた伊奈氏は、後に「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる、利根川と荒川の瀬替えを行いました。」と書かれています。しかし、それでも明治43年の台風、昭和22年のカスリーン台風での洪水は甚大でした。洪水は怖いです。
一方、江戸時代、山の手は水がなくて困っていました。そこで、江戸幕府は小石川上水、神田上水を、その後玉川上水を作り、玉川上水から野火止用水、青山上水、千川上水、三田上水を作っていきました。そのようにして、山の手は飲める水のある地域になっていったのです。
水は人になくてはならないものであり、また、怖ろしいものでもあります。人類の歴史の重要な一場面は水との付き合いの歴史です。







