少年の世話は私がすることになった。彼は三日三晩起きることはなかった。看病に疲れてうとうとしていると、眠っていたはずの彼が声をかけてきた。

「…ここはどこ?」

「ここはツカイの家よ。私は文花…貴方は?」

「文斗だ」

「あやと…?」

文斗は頷いた。文斗は不安げに「ふみか」と小さく私の名前を確認するように呟いた。

「そう、文斗はどこから来たの?」

「わからない」

綺麗な少し癖のある茶色い髪と髪の色よりも薄い瞳が特徴的だった。背はツカイより低くて私より高い。文斗は多分私と同じ日本人だ。でもツカイは、時代や場所は違うかもしれないと言っていた。それよりも、さっきから私は胸の奥がズキズキしていた。最近は文斗の看病をしていたので、風邪でも引いたのかなと思った。すぐ直るだろうと思っていたがそれは間違いだった。文斗はその日から、私と同じ居候になった。文斗も泉を覗いたが何も映らなかった。この世界にやって来た本人にも元の世界に居る人にも未練や執着がなければ何も映らないのだという。そして、私の胸の痛みは日に日に増していった。何なのだろうか、これは。

「お姉ちゃん元気ないね…」

「お姉ちゃん大丈夫?」

コマとマリにも心配されるほどになったので、ツカイに相談することにした。

「ツカイさん…病気なのかな。私。」

「文花さん。それは…」

ツカイは最近やっと、お嬢さんから文花さんに私の呼び名を変えた。ツカイはにっこりしながら言った。

「どんな時にズキズキするのですか?」

「え…どんな時って…」

「ズキズキするときは必ず近くに文斗君が居たり、文斗君のことを考えていたりはしませんか?」

「え…?」

私は胸が痛くなる場面を思い起こしてみた。確かにそうかもしれない。きっと文斗が原因だ。

「そうかもしれないです」

「じゃあ、文花さん。それは多分…恋の病というやつです」

私は言葉を発することができなかった。これが?これが恋なの?混ざって話をすることは無かったし、これからもすることは無いだろうけど、クラスの女子が話していた恋バナや恋愛小説みたいなことが私の身に起きているということなのか?そういうのに疎く、そもそも人に干渉しない、されない、必要とされていない私にとって遠すぎる縁のないことだった。恋バナを恋のバナナだと思っていて、ピンク色のバナナを想像していたと言えば、私がどれほど疎いのか分かるだろう。言わなくても分かるとは思うが、恋バナは恋のお話の略だ。ピンク色のバナナではない。何だか混乱してきた。

「頑張ってください。文花さん」

ツカイはにっこりと笑って言った。頑張れと言われても、愛し方も愛され方も分からないのに、どうすればいいのかなんて私に分かるはずがない。その前に、文斗のことが好きという自覚があまりない。ぐるぐると考えながらツカイの部屋を出て、自分の部屋に戻ろうと階段を上っていたときだった。どこの神様の陰謀なのか私に分かるわけがないが、文斗と遭遇してしまった。私の心はわかりやすく飛び跳ねて、その拍子に階段から落ちてしまった。驚いた文斗がすぐに駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

文斗は私と目線を合わせて尋ねた。大丈夫ではない。まったく大丈夫ではない。意識すると尚更大丈夫ではない。

「どこか痛い?」

文斗は心配するように私を気遣う。私は全くそれどころではない。恋愛経験及び人付き合い経験皆無の私に何ができるというのか。何もできない。頭の中が真っ白になって、ツカイの「頑張れ」という声が聞こえた気がした。

「文斗、す…」

「す?」

文斗は訝しげに私を見つめて何かを考えていた。何の意味も為さなくなった私の使い物にならない思考回路は暴走した。それと同時に何を思ったのか文斗も口を開いた。

「「すき」」

同時に二か所から二文字の音が聞こえた。

「え?」

私も文斗もきょとんとした顔でしばらく見つめ合っていた。まったくロマンチックもへったくれもない告白だった。でも、私には精一杯。告白だったのかさえもう分からない。私は部屋に逃げ込もうとしたが、未遂に終わった。文斗が私の手首を掴んで引き戻したからだ。

「文花、もう一回言って?」

少し頬を染めて文斗は嬉しそうに言った。え、無理。無理です。絶対無理。私は顔が真っ赤に火照っているのを感じた。私のどこにこんな人間らしい感情があったのだろうと不思議に思った。思えば、能面のような表情を顔面に張り付けて生きていた気がする。照れくさいとか恥ずかしいなんて言う感情があったのだなとしみじみ思った。でも、もう一度あんな恥ずかしい言葉を吐けるわけがない。

「言わない」

私は文斗を振り払って、自分の部屋に逃げ込んでラベンダーの匂いのするベッドに潜り込んで眠った。

「それにしても、いきなり両想いじゃないですか。文斗君が相談に来て、そのあとすぐに文花さんが相談に来るなんて、おもしろいですね…。どうなるかは分かりませんけれど、文花さんが愛というものを知ることができたらいいですね。」

「ツカイ!恋って何?」

「愛…?」

「コマとマリにはまだ早いですかね。もう少し大人になったら分かりますよ」

ツカイは二人の子供たちの頭を撫でて微笑んだ。

「えー!ずるいよっ!」

「…ずるい」

「もう寝る時間ですよ」

あの日から私は文斗と一緒に過ごすことが多くなった。なんとなくだけど、愛されることや愛すこと、誰かを大切にすること、好きになること、人の温もりが分かるようになった。

「ツカイさん」

「どうしました?文花さん」

ツカイは草むしりの手を止めて、近くの切り株に座った。

「私、分かりました」

「分かりましたか」

「私は、お父さんにもお母さんにも愛情を貰っていました。分からなかっただけ、気が付かなかっただけだって…やっと分かりました」

「…文花さん。貴女はまだ元の世界に帰れます。どうしますか?」

「私は元の世界に帰ってやり直したい。お父さんともお母さんとも、その他の人とも…」

「じゃあ…」

「でも、私に愛を教えてくれた大好きな人はここに居ます。それに、ツカイさんやコマとマリと離れるのは嫌です」

「文花さん…分かりました。それが貴女の答えですね。それでは、一つ守ってください。今からは文斗君と抱擁をしてはいけません。もし、守れなかったら貴女は元の世界に帰ることのなってしまいます」

「分かりました」

『娘は、文花は…見つかりましたか?』

『お父さん落ち着いてください。身代金の要求もまだありません。警察も捜索を続けております。娘さんはきっと無事ですよ。お母さんもお気を確かに』

そこには憔悴したお父さんと、泣いているお母さんの姿があった。すると、お父さんの携帯に電話がかかってきた。

『お父さん、生まれそうです。奥さんの傍にいてあげてください』

病院からの電話だった。新しいお母さんのお腹にいる私の妹が生まれようとしていた。お父さんは少し逡巡して、『すぐ行きます』と言って電話を切った。

『晴美、病院に行ってくる』

『名前で呼ばないでよ。もう、赤の他人なの。さっさと行ってきなさいよ』

お母さんはそっけなく答えた。お父さんが出ていくとお母さんはすすり泣き始めた。

『文花…どこに行ったの?あの人に任せた私が馬鹿だった。お母さんと一緒に暮らそう?戻ってきてよ…』

私もお母さんに付いて行きたかった。でも、研究に没頭しすぎて家庭をあまり顧みなかったお母さんは、私のことが嫌いなのだと思っていた。

何も映らなくなった、ゆらゆらと揺れる水面を見つめていると不意にツカイが肩を叩いた。私は吃驚して飛び上がった。

「大丈夫ですか?」

ツカイはいつの間にか溢れていた私の涙をそっと手で拭った。

「大丈夫…」

「今日はもう休もう…ね?」

ツカイは英国紳士のような言葉遣いではなく、小さな子供に話しかけるように言った。私はこくんと力なく頷き、ツカイが用意してくれたベッドで眠った。ラベンダーの匂いがした。

朝日が窓から差し込み、朝食のパンの美味しそうな匂いが漂っている中を私は贅沢に微睡んでいた。

「お姉ちゃん!」

「朝だよ…?」

誰だろう?とうっすら目を開けると、小さな男の子と女の子がキラキラとした瞳で私を見ていた。あぁ、夢じゃなかったんだ。

「コマとマリ…おはよう」

「おはようお姉ちゃん!」

「おはよう…お姉ちゃん」

私はゆっくりと起き上がり、キッチンに降りた。そこではツカイが朝食を作っていた。

「おはよう。お嬢さん」

「おはようございます。ツカイさん」

「よく眠れたかな?」

「はい。…あのっ!」

「待って待って、まずは落ち着いてご飯を食べましょう」

テーブルの上にはバターロールや目玉焼きやベーコンやスープが用意されていた。ツカイの手作りらしい。昨日と同じようにツカイは私のために椅子を引いてくれた。コマとマリはソファーが定位置らしく、座ってバターロールを頬張っている。

「あの、ツカイさん」

「ご飯を食べてからゆっくり聞きますよ」

私は仕方なく、ご飯を食べ始めた。ツカイの作る料理は、シンプルだけどとても美味しかった。私が食べ終わるのを見計らったように、ツカイが言った。

「お嬢さん。どうすることにしたのですか?」

「私は、まだ自分がどうしたいのかわかりません。だから、しばらく私をここに置いてください」

「もちろんです。一つ言うのを忘れていましたが、あちらの世界に戻ると、二度とこちらには帰ってくることはできません。」

「え…それは、もうここの人たちに会えないということですか?」

「えぇ、そうです。あと、あちらの世界に戻るためには条件があります」

「条件…?何ですか?」

「人を愛すること愛されることを知ることです」

「愛…私はそれがよく分かりません」

「それを見つけることができたなら元の世界に帰れますよ。ここにはいつまで居てもらっても構いません。自分でしっかりと考えてください」

ツカイはそう言って、片づけを始めた。

「お姉ちゃん。遊ぼう!遊ぼう!」

「…遊ぼう?」

そう言って、コマとマリがじゃれついてきた。犬みたいだなぁ…と思いながら、二人に連れられて外に出て散歩を始めた。毎日毎日の散歩が日課になった。そんな『どこでもない世界』に来て何日か経ったある日、マリが何かを見つけた。

「お姉ちゃん、あれなぁに…?」

「お姉ちゃん行ってみよう!」

近付いてみるとそれは人だった。コマとマリは怯えて私にくっついてきた。

「この人生きてるの?」

「お姉ちゃん…」

コマとマリを連れ、私は恐る恐る近付いてみた。するとその人は息をしていることが分かった。どうやら気を失っているだけらしい。その人の体を転がし、仰向けにした。綺麗な顔をした私と同じくらいの年齢の少年だった。私はコマとマリにツカイを呼んでくるように頼み、小川でハンカチを濡らして少年の額にのせた。少年は呻き声を漏らし、うっすらと目を開けて私を見た。髪の色より薄い綺麗な茶色の瞳だった。

「……君は…?」

少年は微かに一言発し、再び目を閉じた。するとそこにツカイを連れてきたコマとマリが到着した。

「迷い込んで来たのですね。私はこの人を連れて来てはいません」

ツカイは少年をじっと見て、ゆっくりと背負って歩き始めた。少年はそんなに小柄ではないのに、細身に見えるツカイは涼しい顔で小屋まで戻った。

 土の匂いがする。川のせせらぎが聞こえる。瞼の上に木漏れ日が優しく落ちる。気が付くと私は、木の下の柔らかい土の上に横たわっていた。

「気が付いたんだね!」

少し高いソプラノの男の子の声が聞こえた。私はゆっくりと起き上がり、声の主を探した。

「どこにいるの?」

「ここだよ。ここ!」

すると、木の陰から小さな男の子と女の子が顔を覗かせた。

「お姉さん、大丈夫?」

「ツカイが起きたら連れて来てって…」

「お姉さん行こう!」

男の子と女の子は交互に喋った。活発そうな男の子と大人しそうな女の子だった。よく見ると二人は所謂、巫女装束のような恰好をしていて、首には大きな鈴が二つ付いていた。

「貴方たちは誰?」

私が話しかけると、二人はにっこりと笑って言った。

「僕はコマ!」

「…私はマリ」

「お姉さんは文花お姉さんだね!」

「…ツカイが言ってたの」

「ツカイは大切なお客さんだって言ってた!」

「…コマ、ツカイが待ってるよ」

「そうだった!お姉さん行こう!」

ツカイが何者なのかは分からないけれど、ここに居ても仕方がないと思った。

「ツカイさんのところに連れて行ってくれる?」

「もちろん!」

「…もちろん」

「こっちだよ!」

二人に付いて行くと、森の奥に小さな小屋が一つ立っていた。煙突から煙が出ていて、近付くと甘くて美味しそうな匂いがした。

「ツカイ~!お姉さん連れてきたよー」

コマは勢いよく小屋の中に駆け込んでいった。私は恐る恐る小屋の中を覗いた。中は意外に広く、紅茶と焼き菓子の美味しそうな匂いが漂っていた。

「ようこそ。お嬢さん」

聞き覚えのある声が部屋の奥の扉から聞こえた。

「貴方は…貴方がツカイさん?」

それは間違いなく路地裏で出会った男だった。コマとマリが男の周りをじゃれつくように回った。男は愛しむように二人を見ていた。

「とりあえず、お座りくださいお嬢さん。聞きたいことがたくさんあるでしょう?」

そう言って男は私のために椅子を引いてくれた。テーブルの上には焼き菓子と紅茶が準備されていた。男は紅茶をティーカップに注いで私の前に置いた。コマとマリは近くのソファーに並んで座っていた。

「あの、貴方がツカイさん?」

「えぇ、ここではそう呼ばれていますね」

ツカイと呼ばれているらしい男は自分用にも紅茶を注いだ。

「あの、ここはどこなんですか?」

「ここは、『どこでもない世界』です」

「あの、ふざけないでください。私は真面目に聞いているんです」

「ふざけてなどいませんよ?」

ツカイはコマとマリにホットココアを渡した。コマとマリは嬉しそうにそれを飲んだ。

「どういうことですか?」

「ここは、貴女の暮らしていた世界とは違います。」

ツカイは紅茶を一口含んで続けた。

「ここには、貴女が居た世界では忘れ去られたもの、必要ではなくなったものが集まってきます。あちらの世界に必要なくてもこちらの世界では必要とされます。あちらで忘れ去られた物や必要ではなくなった物は勝手にこちらの世界に集まってきます。しかし、人や動物、その他の人ならざる者は自力では来ることができないので、私が連れてきているのです。時々ですが、物と一緒に迷い込んできてしまう人もいます」

「あの。人ならざる者って…」

ホットココアを飲み終えたコマとマリがツカイにおかわりを頼み、ツカイが新しいココアをマグカップに注いだ。

「例えば貴女は神様や妖怪、神話に出てくる架空の人物や生き物を信じますか?」

「小さいころは信じていました。今でも、居ないとは言い切れません」

「そうですか…。信じる者が居なくなったそのような人ならざる者達もこちらの世界にやってきます。コマとマリもその一例です。この二人はある忘れ去られた神社の狛犬…厳密に言うと神様ですね。」

名前を呼ばれたコマとマリはきょとんとした顔でこちらを見た。

「え、この二人も…?」

「そうです。…紅茶が冷めてしまいましたね」

私の前に置かれた紅茶はいつの間にか冷めていた。

「私は…」

「私は迎えに行くだけです。来るかどうかは本人次第。貴女は来ることを選んだ。貴女の世界よりも、こちらを選んだのですよ」

「私は必要とされていなかった。だから、私を迎えに来たのね」

「それは、貴女が一番分かっているはずです。貴女が私を呼んだのですよ」

「………」

「元の世界に帰りたいですか?」

私は何も言うことができなかった。ソファーではお腹がいっぱいになったコマとマイが眠っていた。

「あちらの世界で私はどうなっているの?」

「神隠しにあったという噂が流れているようですけど、すぐに記憶から消えるでしょうね。警察が必死に貴女を探しています。お父さんとお母さんも心配していますよ」

「そんなはずない。心配なんてしてないわ」

「見てみますか?貴女の世界を」

「そんなことができるの?」

「えぇ、見たいですか?」

私はしばらく目の前の冷めた紅茶をじっと見ていた。ツカイはコマとマイに優しく毛布を掛けて、静かに私を見つめていた。私は考えた末に小さく頷いた。

「小屋の裏に泉があります。その泉を覗きこめば貴女の世界が見えるはずです」

私とツカイは小屋の裏の泉に行き、覗き込んだ