私は教務室を出て、教室に戻った。すると、教室の中にはクラスメイトが数人いるようだった。

「お前、遠野のこと好きなの?」

私がドアを開けようとした瞬間、中からそんな声が聞こえてきた。

「……」

「え、遠野? 俺はあんまり好きじゃないな」

「良い子だろ。責任感あって真面目で優しいし」

「でも俺は何か馬鹿にされている感じがして嫌なんだ」

「あかりちゃんは良い子だよ!」

私の友達も中に居るようだった。

「でもさ、遠野さん本心がよく分からなくて怖い」

「先生に媚びてるよなー」

「あぁ、それあるね」

笑い声と共にそんな声が聞こえてきた。話題は昨日のテレビの内容に移ったが、これでは中に入れそうもない。私の評価。これも私の評価なのだ。私にそんなつもりがなくても、どれだけ弁解しても変わらない周りからの評価。私の中の黒いドロドロとした塊は大きくなっていくようだった。帰りたかったが、あいにく荷物は教室の中だ。私はその場を離れてしばらく校内を歩くことにした。 


***

今日は寒い。空も寒くて太陽に近づこうと高く背伸びをしているようだ。青い青い空がどこまでも広がっている。野球部の練習の掛け声、合唱部の歌声、体育館からはバスケ部がボールをつく音が聞こえてくる。放課後の溢れる音を聞きながら、自販機でミルクティーを買った。五百ミリリットル九〇円。紙のパック入ったミルクティーは温かかった。ストローで温かい飲み物を飲むことに若干の違和感を持ちながらも、甘くて暖かいミルクティーを味わった。私の中の塊がこれで溶ければいいのにと思った。半分くらい中身の残った紙パックを持って、私は特に行くあてもなく、時間を潰すためだけに歩き出した。いつの間にかあまり来ることのない場所に居た。さっきの音はすべて消え、厳粛な雰囲気に包まれていた。何だか別世界のようだ。一階に地学教室と生物教室と化学教室、二階に図書室、何かの部室と物置部屋、生徒会室、三階は美術室と音楽室と書道教室があるはずだ。私は図書室には来るが、その他の教室に用はない。そういえばさっき勢いで生徒会に入ったんだということを思い出し、生徒会室の扉の前まで来た。中から音はしない。私は何となくドアノブを回してみた。中に入ろうと思ったわけではない。開かないと思っていたその扉はすんなりと開いた。誰かいるのかと中を覗いても誰もいない。生徒会室は独特な匂いがした。色々な匂いが混ざっていた。ごちゃごちゃとした統率のとれていない部屋は、西日に照らされて奥に影を作った。いつの間にか空は赤に変わっていた。私はその不思議な空間から抜け出し、そろそろクラスメイトは帰っただろうと教室に戻った。案の定教室はからっぽだった。残っていたミルクティーを飲みほして、私は教室のカギを閉めて家に帰った。


黒

ミツキウサギ

             

にこにこしよう。言いたいことは我慢して。当たり障りなく。笑顔を絶やさず。湧き上がってくる黒くてドロドロとした感情を飲み込んで、心の奥に押し込んで。そうして今日も生きていこう。


***

「遠野、これどうするの?」

「それは先生のところに提出だよ」

「あかりちゃん、ここの問題ってどうすれば良いの?」

「これはyに代入すれば解けるから」

「なるほど…ありがとう」

こんにちは。私は遠野あかり。良い子だ。少なくとも良い子だと言われている。責任感があって、真面目で、いつも笑顔を絶やさず、気立てのいい良い子。そう、私は良い子だ。反抗期なんてなかった。そもそも反抗する気もなかった。私が良い子であればみんなが喜ぶから、私は良い子で居続けなくてはならない。だから、私の中に黒いドロドロとした感情があるなんて、誰にも知られてはならない。みんなが望む姿を演じなくてはならない。

「遠野って、責任感あって頼りになるよな」

「真面目だし、頭良いしすごいよね」

私の評価。周りが勝手に作った私。私はそんな人間じゃない。でも、周りがそれを望むのなら私はそうでなくちゃいけない。そうすれば、みんなが喜ぶから。


***

「遠野、これ代わりに持って行ってくれない?」

「どこに?」

「教務。遠野、先生に顔きくだろ? な、頼むよ」

「いいよ」

私は笑顔で応える。きっとクラスメイトの彼も、私がそう応えることを望んでいるはずだ。

「やっぱ、遠野は良いやつだなぁ……ありがとう、助かるよ」

そう、これでいい。私は良いやつではないけれど、喜んでもらえたならそれでいい。私の中に小さな黒いドロドロした塊が生まれた。

「失礼します」

「遠野、丁度良いところに来たな」

先生が私をにこやかに迎えてくれる。

「生徒会に入ってくれないか? 頼むよ。人数が足りなくってなぁ……」

先生はほとほと困り果てたという顔で私を見る。正直やりたくない。大変だし、人前に出るのは苦手なのだ。まず目立ちたくない。

「いいですよ。暇ですから」

私は先生が望む、優等生の返答をした。私の気持ちよりも、困っている人を助けるのが先決だ。そう教えられてきたし、そうすれば喜んでもらえる。

「助かったよ、ありがとう。さすが遠野だな」

そう、喜んでもらえる。私の中にまた小さな黒い塊が落ちた。さすがって何?先生は私をどんな風に見ているのだろう。そんな疑問。

「失礼しました」



文斗はツカイと私の会話をたまたま聞いていた。文斗は迷った。私が元の世界に帰ることを望んでいると文斗は知っていた。度々泉を覗き込んで私が泣いている姿を見ていた。でも、私が文斗を本当に愛しているということも知っていたし、文斗も私を愛していた。文斗は悩んだ末にツカイに相談し、私を元の世界に帰すことを決めた。ある日、私と文斗は赤から藍に藍から黒に変わりゆく空を見ていた。

「文花。元の世界に帰れよ。まだやり直せるだろう?お前は不必要な人間なんかじゃない。あっちで待っている人が居るだろう?」

「文斗を置いていきたくない。あっちより、この世界の方が好きだもの」

「じゃあ、どうしてそんなに辛そうなんだ」

「辛くなんてない。私は幸せよ。」

私の意志と反して、涙が頬を伝って落ちた。文斗はそっと私を抱きしめて「愛してる」とささやいた。私は、何が起こっているのか分からなかった。でも、「抱擁をしてはいけない」というツカイの言葉を思い出し、これで文斗にはもう会えないと悟った。私は、文斗を強く強く抱きしめて「好き」と「愛してる」をうわごとのように繰り返し呟いた。私の体は溶けるようにまばゆい光に包まれた。その光に気が付いたツカイとコマとマリが小屋から出てきて、私に別れの言葉を告げて、手を振った。コマとマリは訳が分からないまま泣いていた。文斗の「幸せになれよ」という言葉を最後に聞いて私の体は消えた。

「…ふ…みか……」

私の名前を呼ぶのは誰?私はふわふわとした意識の中で微睡んでいた。

「文花…!」

私は、うっすらと目を開けて周りを見るとお父さんとお母さんがいた。二人は泣きながら、私の名前を呼んでいた。私が行方不明になってから、一か月が経っていた。私は、路地裏で倒れていたところを発見されたらしい。あの『どこでもない世界』での日々はもしかしたら、私の妄想や幻かもしれない。でも、私は文斗の温もりや彼から貰った愛を覚えている。ツカイやコマやマリと過ごした楽しい日々だって、ちゃんと覚えている。だから、大丈夫。

「お父さん、お母さん。私を愛してくれてありがとう。心配かけてごめんなさい」

お父さんとお母さんは、一瞬不思議そうな顔をして目に涙を浮かべて「当り前だろう」「心配したわ」と応えた。ねぇ、文斗。私は今幸せだよ。ありがとう。

 私は神隠しにあったと一躍時の人になったけど、それもみんなが忘れかけたであろうそんな日。私は普通の繰り返しの日常に戻ろうとしている。今でも想う。愛しいあの人のことを。

「文花!」

私は誰かに呼ばれた気がして振り向いた。そこには、文斗が立っていた。夢かもしれない。私は目を疑って、頬を抓って、思う存分確かめて、夢でないことを認識した。そして私は、愛しいあの人のもとに飛び込んだ。

―END―