最高の義 | 太陽王法の会


『最高の義』


我、阿迦尼咤天の法樹林に遊ぶ時、十数人の菩薩達そこにありて法と論じる姿あり。

我、近づきて笑みてなにを論じおるかと問えば、『これは大日様、よいところにこられました。

実は今、皆でこの世界で一番、最高とは何か、それをどう釈するか話をしておりました。』

『それで答えはでましたか。』

『いえ今だ出ておりません、色々の世界を皆して観じて比べて見るのですが、その証しとなる答えが出ません。

できましたら、その智慧をおかし下さいませ。』

我それにこたえて皆の顔を見まわし、『されば、友よかくの如く聞きましょう。

私がここに、最という文字を示して次に、高という文字を示して、どちらが上であるかと問いましょう。』

すると一人の菩薩は、『最が上であり高が下であります。

最なるがゆえに、高いのであり、最でなくば高くはなく、上にはなれません。

ゆえに、最高も、最を上に示していると考えます。』

するともう一人の菩薩が、『高が上であり、最が下とも申せます。

この上なく高いから最となれるのであり、高くなければ、もはや最にはなれないのでございます。

ゆえに、高が上であり、最が下とも申せます。』

我、それに答えて『友よ、それはまた共に正しい答えであり、また正しくない答えである。

共に一を立てて上と論じ、一を下と論じるはこれ誤ちなり。

最と高と示せば、最なるがゆえに高く、高きがゆえに最となり、共に一なるをして等しく、一々平らかになるをして、上とはこれを申せるなり。

しかるに友よ、最においても、高においても、その文字名体、義・釈、一と証せずしてそれはそれにして、それに非ずと知る事なり。

たとえば、その名と体、義と釈が一とならなければ、それをそれと論じる事はできないのである。

山が山でなければ山とはならないが如くである。

しかるに友よ、最はそのまま、義・釈において、名体の最と一にならねばならない。

しかるに友よ、最はそのまま義と釈において、名体の最と一にならねばならない。

しからば、最を最と知る事こそが肝心なり。

高においてもこれ同じである。

この二つがともに一となりて上もなく、下もなく、平らかにして、分け互えるところがなくなりたところをゆえに上と言うのである。

一方をもって上と論じ、一方をもって下と論じている以上、真の上とは言えないのである。

たとえば、よく宗教界の中で、我が宗こそが上にして他は下なりと論じる者達がいるが、その者達を真の上とは言えぬなり。

互いに論は論を呼び、愚論をもって上だ下だと自己主張申しても、絶対、上になれぬと知る事なり。

すなわち一方を立てて上と論じるはこれみな誤ちであり、これを、中道に非ざる謗と示して、これを正して教えるなり。

されば、互いに自己主張より離れて、無我となり、一と調和なしゆけば、上も下も無くなるなり。

上と申すも、下と申すも、真と解せぬただ無知のなしゆく迷論これと知る事なり。

すなわち、真如正道と観じて、上も下もなく、その一々を一となするが、真の上と知る事なり。

無上とはすなわち、上が無いのであり、上なくばこれ下無く、上下がまた無く一切平らかにして等しくなるに無上と申して、等正覚これと教えるのである。

すなわち、最と高も、最一義、高一義にして、ともにその一義が一と帰結して一となるのが本義なり。

ゆえに友よ、私のこの教えよく心と噛みしめ、最と高、ともに一と観ぜよと教えるなり。

これともに一切の一となしゆきて、上も下も無く、全てとなせば、友よ、汝等みなその智慧において真の上とはなりゆくなり。

最とは、日を上と取りて一と成す事なりてその一をして一切の一と成すのが、真の智見と申すなり。

高とはまた、天蓋光明あまねく一となして、地一切これを包みてまた一となすゆえ、高の高とはなりゆくなり。

しかるに、最においても一義一体であり、その一義一体が、一切衆生全てとなれば、無上の上と示すなり。

これを極めれば宗の一切も、そこに極むと教えるなり。

ゆえによく最を観じ、高を観じ全てを平らかに一と解せと言うなり。

されば、万宗において、イスラムが一番だの、キリストが一番だの、ヒンドゥ一が一番だの、神道が一番だの、仏教が一番だの、等々の言と申する者みな今だ至らぬ者と知れるなり。

みなこれ最高の義これ解せぬに、分けて互えて争うなり。

全てを一となして包みて平らかになしゆくに、無上となると知る事なり。

友よ、最高とはゆえに、上無くして、下無く、下無くして、上無く、上下無くして、一切等しくなるを正覚なすに、それを得るとは知る事なり。』

その説法を聞いた菩薩達みな修行すでに高くして、よくこれを解して、喜びみなそれぞれ最の観禅定と入り
て、その大慧を体得し、高の観禅定と入りてその大慧も明らかに体得して真の無上等正覚、一義の悟りと至りたのである。   

『最高とは、日(太陽)一如となして(大円鏡智・合せ鏡)日と取りて光明智と至り完成して、太陽と一如生まれて高きと至りて高らかに光明の智慧と教え説く命と生まれるゆえに最高と言うなり。

即ち全ては太陽の法とゆえに私は教えるなり。』


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌