『生命の否定は無明迷者の論!1』
生命の否定は覚者の知見に非ず!
生命の営みを否定するもまた、覚者の知見に非ず!
それを今だ道と至らぬ者と申するなり。
心に心聞けずば、その本質は見えない。
ただの否定論者をゆえに私は、覚者とは言わない。
全てを肯定した上で、そこに正しく道を見れる者をこそ、私は真実の覚者と名付けるなり。
性を否定する者は、所詮無智の所産にすぎない!
命を否定し、命の営みを否定して、命の道これの見える事これなし!
性を命の道と肯定して、そこに正しい道を見て道を営み、道を説ける者こそをまた真の覚者と言うなり。
怒りを否定し、憎しみを否定し、恨みを否定し、その心の本質を見ようとしなければ、その心の大切もまた見えない。
これ無き命を知れば、これの大切また解るなり。
その正しい役割りを覚めて正く知り、正しく解し、正しく用いて、正しい命を営み、正しい命と帰れる者をこそまた、真の覚者と言うなり。
覚めれば、人間はそのまま完璧に作られている!
それを知ろうとせずに浅きところと迷うゆえに、その完璧が常と崩れて、苦界迷道を流転輪廻するのである。
覚めれば、そのまま人間は完璧に生み作られているのである。
ゆえに創造主の偉大もそこに実と知るとは申すなり。
命とは道の中においてこそ、完璧となるとは知る事なり。
命を命と否定するなら、一切のその命を生むな!
そして自らもまた存在するな!
私は一切の命の親を知るゆえに、その立場に立ってこれを申すなり。
命を否定するなら、一切の智またそこに生むな!
そして自らの識心一切また存在させるな!
命を命と肯定し、命の営みを認めて認めながら、そこに正しい道を示せる者をこそまた、真の覚者と言うなり。
眠っている否定論者をして、覚めた人(覚者)とは言わない。
覚めて、生き生きと輝く人こそを覚者と言うなり。
命の営みの否定論者は、眠り、死んでいる人であり、暗き闇の中の人である。
覚者とは太陽の如く、明らかに覚めている人の事で、全てを肯定しつつ、道をそこに見れる人を言うのである。
性の否定行者は、命の世界においての命の否定、命の営みの否定論者これなり。
その者は、命と命の営みを否定するゆえに、自らをまた否定する者なのである。
されば一切の命を生む事も無く、自らをまた生む事も無きゆえに、自らまた、存在する事はないのである。
存在なき者に、命の道は、正と説く事は出来ぬなり!
私は、ただの否定論者をゆえに暗き闇を歩く者と申して、肯定して正しくそこに道を見れる者をこそ、光明の智者とこれを申するなり。
この世界は、大いなる命の世界である。
されば命の否定論者はこの世界の者とは言わない。
命の世界の、命の道を明らかに見れる者をこそ、ゆえに覚者と言うなり。
命の営みの否定者ならばそれを仏陀とも名付けない、神ともまたこれを名付けない。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌