真実のめ覚め・悟り | 太陽王法の会


『真実の覚め・悟り1』


古代の仏教や宗教にある否定論を単に否定論ととらえる事なく、それはひとまずおかれた単なる方便と聞くことである。

それはそれを否定して見せて、まずそれを考え、それを見つめ、それをそれと正しく知る道へと至らしめるのが目的であると知る事である。

この見つめ見る、考え見つめる事のなくして、ただそこに染まり、つかってゆけば、人はそこに道を見ることができないからである。

ゆえに例えば、僧侶、行者に対して女性を否定せしめて、そこに身をおかして考えるという意味を与えたのである。

悩み、そして考え、その上で正しく道を見る!

この思惟する行為、考えに考える事によって、そこに正しい道を見つけるという事をこそ大切にしたのである。

このように正しく知ると言う行為、その為に考えに考え、思惟し、正しく見つめてゆくという行為に、静かに坐って見つめるという大切を教えたのである。

人は、悩み苦しんで、そこに正しい道を見て覚めた時、もはやその道を誤つ事がないからである。

その深い心を知らずして、ただそれが否定しているからとか、それに反すると悪であるとか、破戒であるとか決めつけるのである。

それは単なる固定観念に捕まって、縄をもって縛られている相にすぎないのであり、それをして自由とも、自在とも言わないのである。

過去の仏教者、宗教者にはこの固定観念の計らいや、執着が多く、ただその決めつけた自我の物差し、すなわち計らいで測るところが多いのである。

ゆえに、固定観念や、自我の決めつけた計らいの物差しを先において全てを見るな、決めつけるなと言うのである。

その自我の計らいや決めつけた見方が、真実から遠ざけて、逆に道を誤またすからである。

真実と道理に近づく事が目的であり、大切なのであり、そこにおいて大いなる自由、自在すなわち、観自在智を得る事こそが大切なのである。

その道の為の否定を、方便と見ずして、断定と見るのは全て誤ちであると言うのである。

私はゆえに、あるものはあるものとして、全てを肯定して、そこに自我や、計らいや、固定観念の執着、自己の決めつけた考えをおかず、自分をすてて(無我)、正しく見つめて見よと教えるのである。

その見て知ると言う事はゆえに鏡であると言うのである。

あるがままに、正しくその実相を写して、それをそれと正しく、大きく知る事が大切であり、それが知ると言う事であると教えるのである。

自己の心を鏡(無我)として、曇らせず写しゆく事こその心である。

その上でそこに正しい道を見つける事が大切なのであり、それを見つけたらもはや迷う事なく、正しく用いて歩めと言うのである。

全てに対してこのように知り、それを真実と道理にそくして用いるようになれば、もはや、全てに縛られる事なく、自由にして自在にそこを生きられるのであるから。

ゆえに全てを用いても、染まらず、流されず、輝かして、その命をゆけるのである。

その覚めた自分と生まれるのが、ゆえに真の悟りと言うのである。

人はこの心をこそ覚めよと教えるのである。  


太陽の法嗣

大日    天光子

合掌