『一つの命の二つの世界!』
友よ、汝のまわりには、自己中心で相手を思いやらない心が満ちあふれていないだろうか。
友よ、汝のまわりには、弱者を踏み倒しても、自分達さえよければよいと言う、心が満ちあふれていないだろうか。
自分本意の奢りと慢じと、怒りと、憎しみと、恨みと、妬みと、ありとあらゆる欲望、貪欲が満ちあふれていないだろうか!
友よ、相手を蹴り落としても、なにをしても勝てばよいと言う心、競争主義、対立主義の心、そのためにはどんな相手も、踏みつけてゆけと言う誤った教えは、そこにないだろうか。
友よ、妻や子、家族をおきざり、おざなりにした世界は、そこにないだろうか!
愛と思いやりとを忘れた心が、そこに満ちあふれていないだろうか。
友よ、天地大自然はゆったりとした時の流れの中に、命を営むのであり、命を見せるのである。
あなた達はなにゆえ、そんなに走りまわるのであろうか!
他を踏みつけ、自分を踏みつけ、愛を忘れ、思いやりを忘れ、いたわりを忘れ、悲れみを忘れ、慈しみを忘れ、尊びを忘れ、貪欲と怒りと、対立と無知邪見と、自己中心主義の競争と、何故、そんなに走りまわるのであろうか!
そこにおいて汝等のゆきつくところは、迷界であり、苦界であり、闇であり、地獄であるなら、どうするのであろうか。
友よ、自分と自分のまわりを思いやり、愛する静かな安定した世界がある事を知る事である。
弱者をいたわり、力となり、ひとつとなって生きる!
その喜びがもう一方にある事を知る事である。
協力しあいて生きる世界、分けあい、与えあいて生きる世界、愛しあい、思いやりあい、大切にしあい、助けあい、守りあう世界、その静かで安定した平和な世界がある事を知る事である。
友よ、他を傷つけて自ら傷つく事は、真、愚かな事である。
他を憎みて、自ら憎まれて暮らす事も、真、愚かな事である。
他を恨みて恨まれ、害して害され、他を苦しめて自らまた苦しむ姿こそ、真、愚かな事である。
友よ、奪い合い、盗みあい、騙しあい、傷つけあい、害しあい、踏みつけあい、倒しあい、苦しめあいて、あらゆる欲望のとりことなりて、その執着の縄に縛られて自由をうしなっいる姿こそ、真、愚かな事である。
友よ、そのような生き方は自分で自分を縛りて自由を失い、平和を失い、幸福を失い、愛と人間性を失い、道と天と命とを失う悲れなる生き方である。
そのような貪欲と対立とに満ちあふれた小さく、そして狭い檻のような世界をつくって、何故、自分と他を縛りあいて生きるのであろうか。
友よ、もっと自由で、平和で、幸せに満ちあふれた喜びある世界のある事を知る事である。
友よ、他を愛して愛される生き方は、真、素晴らしい生き方である!
全ての他を自己の如く愛して、自他一如の愛に生きる事は、真、大きく素晴らしい生き方である。
友よ、他を思いやり思いやられる生き方は、真、素晴らしい生き方である。
全ての他を自己を思いやるが如くに思いやり、自他一如の思いやりに生きる事は、真、大きく素晴らしい事である。
友よ、多くに喜びを与えてやれる自分を生きる事は、大いなる喜びである。
友よ、多くに楽しみを与えてやれる自分を、生きる事は大いなる楽しみである。
友よ、多くに幸せを与え、与えてやれる自分を生きれる事は、最上の幸せへの道である。
友よ、無知の対立を離れて、全てが和して笑顔を交わしあい、助けあい、手を取り合って生きれる事は、素晴らしい生き方である。
友よ、真に世の中において役に立てる自分を得て、そこに徳を得、光を得れるならば、最高の満足を汝等は得れるのである。
友よ!
ゆえに、愛しあい、思いやりあい、助けあい、大切にしあい、喜びを与えあい、楽しみを与えあい、全てを与えあえる
世界は広く大きく、素晴らしい世界なのである。
友よ、自らと自らのまわりをよく見つめて、今そのどちらの世界、どちらの心を生きているかを知る事である。
一方は無知と、対立と、争いと、苦しみと、孤独とを得て、闇を得て、闇と落ちてゆくのである。
そしてもう一方は、愛と、平和と、自由と、幸せと、仲間と、調和と、智慧の光、光あふれる命を得て、天を得るのである。
友よ、これをよく知りて、全ての世界の上にまた見つめる事である。
それが汝等を救う事になり、汝達の世界を救う事になるのであるから。
『その一方の生き方は、せまい檻の中で苦しめ束縛しあう、闇く小さな命の世界である。
その一方の生き方は、広く大きく天地一杯に満ちあふれた、光輝く命の世界である。
その一方から一方へと覚め帰る、それが転迷開悟であり、真実の命、真実の世界への廻帰である。
そこにおいてのみ人は人となり、人は人を得て、天と入れるのである!』
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌