『真実の指摘をされると!』
万宗を一と包めない宗と教は小器にして今だ真理真実と極めておらず、至りていない宗であり教である。
行道すなわち
如来の行道、
神と仏の行道はただひとつであり、ひとつの方向性をもって万法を一々、一と示すのである。
これのできず、
知らないものは、今だ至らぬ証である。
ゆえに、
宗の対立をなす宗教はみな真実を知らない、今だ途上の宗と教えるのである。
そは『行』の一字義さえ読めぬからである。
真実を指摘されると人は赤くなったり、青くなったりしてその心を動揺させるのである。
その姿と心をこそよくと覚めて、
自分を気づき知れとは言うなり。
その心こそ正直な自然の命であり、その真実の自分、美しい流れ(一流)とひとつの、本来の自分の命と帰る事こそ大切と教え示して、これを教えると知る事なり。
嘘や、
自分本意の計らいを棄てて、裸に帰ってしまえば、
人は本来の美しい命の源へと帰れるのであるから。
立場などという仮りのものより、
美しき源の命を守る事こそ大切である。
一期の仮有のものによって永遠たる命を失う事は哀れで、悲しい事である。
仏は、
四人の妻に
たとえ話で、
身体・
財宝・
財産・
地位・
妻子家族も、
死での旅路についてこれぬが、
心という普段忘れている妻だけは、永遠についてくる事を教え示すを知る事なり。
私は万教と分別なしてよくこれを説くるも、衆生一切を往かしめるところは、ただの一道である!
それを真如大道、大日道心と教え示して、心と命と命の道と教えているのである。
全てを真理の一なる道へと至らしめ大覚成道の神仏の智見と至らしめる事こそがその真の目的であり、全てを大日如来と回帰せしめるのが、
その太極と教えるのである。
『道は一切の中に秘め教えられている!
人々は自分の存在の意味、心と言うもの命と命の道の目指す目的こそ、覚め知る事である。
自分探しの旅を忘れず、この世の人生で自分を完成して無事に天と生まれ帰る事である。』
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌