『別は同より成る!』
別と示せばこれ同一如であり、同を離れて別無く、別はこれ同を親となし、道となすのである。
ゆえに宗教において別と示して争い暮らして同を知らぬを一字の真を読めぬ者と言うのである。
同とは一つとおおいつつみて全てを一つとなすを示し、別とはその一つをめぐらしてかくかくと切りてそろえるところを示すのであり、その別の一切はゆえにみな同とかえるを教えているのである。
これを真理一義処の同と言い、別と言うのであり共に一つなるを示すのである。
別国家と言えども地球国家、
天地世界において同なのであり、
別民族と
申すれども人として一であり、
命として同なのであり全てにおいてこの一と帰る事こそが真実のすがたであり、道なのである。
全宗教の真実もまたその大いなる真理において一と帰る事が道であり、別と見えるものが大いなる一においては悉く同としることが真の悟りであり、ゆえに一神教も全てが一と回帰なして一と同じくなりてこそ真実の一神世界と言えるのである。
全即一・一即全にして、別即同・同即別こそが真理なのである。
同教帰一とは、別教なるも真のところ、道においては全て同じく一と帰る事を示し、真理においては全て同じにして、帰るところは一と教えるのである。
この帰りたる一をこそ第一義処と言い、真の一神の坐、真理の坐と言うのである。
人はこの大いなる真実が理解なせず迷いて争い、その苦しみより脱けられないでいるのである。
よく悟りたる仏陀はこの一を知るゆえに第一義諦の仏と言い、一乗仏とも言うのであり、その広大無尽なる心と至るにまた一神一如の神と生まれた者と言うのである。
同を離れて別は生まれてなるをかなわず、ゆえに真の同の真実こそ知れと教えるのである。
全てはこの一より生まれたのであるから。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌