『泥田の中の稲!』
泥田を離れてその稲は育つか!
泥池を離れてその蓮華は咲くか!
よくと考え見よと言うなり。
その泥を毒とせずして栄養として命を育て、命を咲かせる心こそそこに見なさい。
その稲・命・を育てる為に、
その蓮
華・命・を咲かせる為に、
この世に来ている事をこそ知る事なり。
泥田、泥池を捨てよ、離れよと言っているのではない。
それを栄養として命を育て、命を咲かせよと言っているのである。
泥田を離れて稲は育つ事は無いのであり、泥池を離れて蓮華は咲かないのであるから。
煩悩即菩提、
迷覚一如、
そこから逃げるのではなく、そこにあってそれを知り、正しく命を生めと言うなり。
その命を
命として育て、
咲かせ、
つくるためにこそ私はこの世に来ているのであるから。
この世は命を命として育てつくるところなのであるから。
それを毒となさずに栄養として命を育てよ!
その為にもそれをそれとしてよく知り、よく見つめよと言うなり。
迷いを迷いと知りよく見つめればそれがわかるのであるから、そこにおいて覚りもひとつとなって輝くなり。
「迷う自分とそれに気づく自分、ともにひとつとあるを覚めて、よくその心、その命を見つめて生きよと教えるなり。」
道は全て神を離れては無いのです。
どんな道もたゆみ無く進めばみな一へと帰るのです。
道は神より生まれてみな神と帰るのですから。
ゆえに信じ疑う事無く、一歩一歩ゆく事です。
一切に神あり、
一切は神の命であり道である。
こうしっかりと知る事です。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌