『迷覚は一如!』
「迷いがあってそこに悟り、覚が存在しないと言う事はなく、覚、悟りだけがあってそこに迷が存在しないと言う事もないのである。」
迷覚・悟、は一如であってその一方を離れて一方は無く、一方が存在しなければ、そのもう一方もまた存在しないのであるから。
覚り、悟りたからと言って迷が無くなったのではない。
迷いているからと言って覚り、悟りが無い訳でもない。
迷いがあればそこにひとつと覚、悟りもあり、覚、悟りがあれば迷もまたそこに一とあるなり。
迷があるから
覚・悟があり、
迷覚は一如にしてだれにでも一と存在すると知る事なり。
その一方は一方の辺であり、一方の表現である。
迷いが無ければ
覚りも無く、
覚りがなければ迷いもないのである。
ゆえに覚めたからと言って迷いが無くなった訳ではなく、その迷いを迷いと知り、覚りを覚りと知るからこそ、真の悟りた者、覚めた者と言うなり。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌