『矯正の正道・獄と救い!5』
悪道に迷して罪これを犯した者を裁くのは、命の上においての救いこれなり。
裁きとはそもそも、その悪道の罪と気づかしめ、その誤ちた命より、その迷いた命より救いとるがためにあるなり。
悪と止どめ、
悪と気づかしめ、そこより救いとるのはこれ命の上においての一番の救いこれゆえなり。
そのゆえに人が人として同じ人を裁いても、正義として成立すると知る事なり。
その罪を罪と気づかしめ、その汚れと罪を償わしめ、洗い落として覚めへと導く!
それこそ罪と罰、裁きの正道なると知る事なり。
その罪と罰によりて獄と束縛するのはゆえにまた矯正これと言うなり。
曲がった命をまっすぐと正し帰して更正せしめる!
そこにこそ罪と罰と獄の正義が成立するなり。
裁きも、
罰も、
獄も、
正義正道もみな、天道として道にかなうと申すなり。
すなわち
その全ては
ただその命の救いのため、大悲救いのためにこそ道としてそこにあるなり。
この大悲救いの心、救わんかなの心を忘れては、その全ては道として成立せぬなり。
この真の矯正の心こそその道にある者達は決して忘れてはならない。
その道にあればこそその者達の道は成立し、天道にもまたかなうものと教えるなり。
さればそこにある者達こそまた
その救いのため、導きのため、
正しのために、
命の道、
心というものを修し学びてゆく事こそ、最も大切なると教えるなり。
迷いの穢土より悟りの浄土へと渡らしめるのが獄にある矯正官達の真の務めなのであるから。
続く
太陽の法嗣
大日天光子
合掌