『真実義をして五時教と五味教の誤ちを正す!』
(その1)
よいかな!
よく聞きなさい!
五味とは牛乳を精製する時の五段階の味を示して法門に当てはめて例えたものであり、乳味
「生味」
「酪味」
「生蘇味」
「熟蘇味」
「醍醐味」
と示すものです。
五時とは、釈尊の聖教をその内容により分けて分類したもので
華厳時、
阿含時、
方等時
般若時、
法華涅槃時と示したものを言うのです。
これで示すと生味
「乳味」は酪味を
生じ、
酪味は生蘇味を生
じ、
生蘇味は熟蘇味を
生じ、
熟蘇味は醍醐味を
生じると示し、
これを五味の正道と教えているのです。
これには甚深なる修道の相が秘められており、この五味がそのまま一円修体の教となっているのであります。
生味を因、発心点てすれば
酪味は行、修行点とし
生蘇味は証、菩提点となり
熟蘇味は入、涅槃点となり
醍醐味は方便究竟点となるのです。
十地教に合わせれば
生味は歓喜地となり酪味は離垢地となり生蘇味は発光地と、熟蘇味は焔慧地で、醍醐味は難勝地となりて円輪一命の自受の修体が示されるのです。
真理と自己とが一つになって生じる味が歓喜であり
そのゆえに
因、発心となってゆくのです。
歓喜発心を得るがゆえに、その命が清められて離垢となるのです。
これが修行位となるのです。
離垢修行のなるゆえに、その命がそのまま清浄と輝いてゆくのでこれを発光地と示し、証、菩提位と教えるのです。
発光した命が更に磨かれて輝いてゆくを焔慧地といい、これを入、涅槃位と示し、熟蘇味と示すのです。
一義大悟の処と生まれて一命と成りゆくに難勝地と言い、自己を完成してゆくに方便究竟位と名ずけ、醍醐味と教えゆくのです。
これは自受の
因、
行、
証、
入、
方便究竟であり
利他の覚行とむかうところにまた十地の後、五地があるのです。
生味はすなわち真理という太陽、
摩訶毘盧遮那と自己が入我我入して一つに開かれる相と時を示すに、
これを五時に示すと、華厳時と言うのです。
太陽一と修して南天へ登りゆく相が修行離垢の相であり、
これが阿含時と示すのです。
南天に登りて
一切方等となりて、証、菩提発光となすにこれを方等時と示して、その命が熟されて更に輝いてゆくに熟蘇味と示し、
これを般若時と示すのです。
その太陽大日一命となしてめぐり、自己の命によくそれをおさめて一即一、境地冥合一乗一義の境地とおさめるのが西方に天地一如となして太陽を内とおさめる相を示して難勝地と示し、
醍醐、法華涅槃時とこれを教えるのです。
これこそが一円一命の修体であり、五味、五時教の命なのです。
ゆえにその一々は円であり、一々をはなして別するならば、全ては実となる事は無いのです。
この如来の実説法を自己の命で験証しない者にはその真実は読めないのです。
五地も十地もみな円輪の円教となって正となるのです。
されば
生味は酪味を生じ、酪味は生蘇味を生じ生蘇味は熟蘇味を生じ、
熟蘇味は醍醐味を生じせしめるのです。
一が二を生じ、
二が三を生じてゆくのは当然の道だからです。
よく知るべきは、
醍醐味が醍醐味を生むのでは無く
熟蘇味が生むと言う事であり、その
熟蘇味は生蘇味が生み、
生蘇味は酪味が生み、その全ては、はじめの因としての生味乳味が生むと言う事なのです。
五時に示せば、因としての華厳歓喜地がなければ、なにも生まれないと言う事なのです。
よくこの理を知らなければなりません。
創価学会等はこの五味と五時に促してその大秘の真実がわからぬままに、
妙法蓮華経という
題目の五字と合わせて注釈している事を見直して見なさいと言うのです。
その五味を五時と示して、法華経を醍醐味なるに第一と言い、他の全てを謗法などと申するにこれを正しく教えてその誤ちを正すのです。
醍醐味は醍醐味が生むのでもなく生みゆくのでも無いのです。
これは熟蘇味がそれを育てて生みゆくのです。
熟蘇味がなければそれは生まれ得ないのです。
すなわち法華と申するも、般若がありてこれを生みゆけるのです。
これ無くして生み得ないのであるから分別卑下して軽んぜる釈説は大きな誤ちとなるのです。
一命円教は、
一無くして二無く、二無くして三無く、三無くして四無く、四無くして五は無いのです。
ゆえに五時と言い、五味と言うならば、全てが一なる大切と知るべきだと教えるのです。
華厳が阿含を生じ、阿含が方等を生じ、方等が般若を生じ、般若が法華涅槃を生じるのです。
これが五時五味の道なのです。
因、発心が
行、修行を生じ、行、修行ありてこそ
証、菩提が生じるのです。証、菩提ありてこそ
入、涅槃が生じ、入、涅槃ありて
方便究竟の大位が生じるのです。
これを妙法蓮華経の五字に配し合わせて注釈し、法華以外は全て謗法ゆえにうち捨てよなどと申したら、それがなにを言っている事かよく考えて見なさいと教えるのです。
全てが一つになってこそ
五味も
五時も
五位も自受の
五地も
そして妙法蓮華経の
五字も一つに成立するのです。
五時と五味とその五字が、創価学会等の出す大辞典等において一つになっていない事、順がまたバラバラである事、よく見直して見よと言うのです。
日蓮においてもそれはまた実とその意を理解していないゆえに誤つものと証明するのです。
般若これをおろそかにして
法華は生まれず、その般若を生じるために、
方等、
阿含もまたおろそかにはできないのであり、はじめの
華厳を捨てるならば、因なく結果の生じる事は一切無いのです。
この生味たる華厳を知らずと真の成道は無く、仏陀も生まれる事は無いのです。
実法甚深の大法を知らずしてゆえに自我に迷いてはならぬと教えるのです。
続く
太陽の法嗣
大日天光子
合掌