『形無く見えずとも有りて有る世界!』
形ある人間は、
形無きもの、
形無き世界を見る事はできない。
しかし、
人間の形無き心、
意識と心。
この二つにして、
一つの心は、
形無き世界、
人の眼に見えない世界を観る事も、
知る事も、
感じる事も、
ハッキリとできるのである。
その意識と心は、
形無き霊の世界。
天の世界に接する事もできるのである。
神と仏の世界にも接せられるのである。
心とは、
色無く、
形無く、
見る事も手でつかむ事もできない。
しかし形無くしても存在しているのである。
その形無くして存在している心は、
思い出をしまっておく事も、
引き出す事もできるのである。
そして見た事も、
行った事もない世界を見る事もできるのである。
沢山の事を、
知る事も、
智慧を生む事も、
できるのである。
形は無くとも存在しているのである。
人が嘆き悲しむという事は、
人の姿や形を言うのだろうか。
涙を流し泣く姿形を言うのだろうか。
違うであろう。
それでは嘘泣きも嘆き悲しみになってしまうのである。
姿形であると言うならば、
嘘も悲しみになってしまうのである。
嘆き悲しむとは、
心の痛みであり、
心の悲しみ、
嘆きなのである。
即ち、
心なのである。
その心は、
形無くしても、
はっきりと存在しているのである。
心が嘆き、
悲しむのであり、
それに人の姿形が合わさるのである。
怒るというのも姿形であろうか。
姿形だと言う事なら、ただ顔を怒らせれば怒りなのだろうか。
嘘でも、
身体を震わせ、
眼を怒らせれば、
怒りなのだろうか。
違うであろう。
姿形では無く、
心が怒るのである。
姿形が怒っても、
心が怒らなくては、怒りにはならないのである。
心が怒るから、
それに姿形が合わさるのである。
人は怒っても、
姿形に、
あらわさない事も、できるのである。
心がそれを、
おしとどめるからである。
喜びも、
人の飛び跳ねる姿形、舞い踊る姿形ではない。
心なのである。
喜びとは心が喜び、心踊るのである。
感動も心が感動するのであり、
苦しみも、
恨みも、
憎しみも、
執着も、
全て心なのである。
それが姿形、
行為としてあらわれるのである。
その心は色無く、
形無く、
人は見る事ができない。
しかし、
はっきりと存在しているのである。
人とは即ち、
心なのである。
意識と心、
二つにして一つの、心なのである。
意識無くば、
心無ければ、
痛みも、
苦しみも、
悲しみも、
喜びも、
幸せも、
楽しみも、
なにも存在しないのである。
全ては、
心なのである。
心が感じるのである。
心は心の眼をして、見る事も、
知らない世界を、
見る事もできるのである。
心は聞く事も、
見る事も、
触れる事も、
嗅ぐ事も、
感じる事も、
想う事も、
全て、
できるのである。
本来、
人間とは心であり、心が人なのである。
その心は、
形無くしても、
はっきりと存在するのである。
即ち、
有にして無であり、無にして有、
有にして有なのである。
形無きその心は、
形無き空の世界とも通じており、
その実相を、
真理世界を知る事もできるのである。
即ち空の世界と、
接しており、
接する事ができるのである。
知らない世界の、
知らない風景、
そして全く知らない世界と人々。
それらを夢で見る事もできるのである。
それらは、
空から生まれるのである。
心の扉を、
正しく開くと、
智慧の扉も開かれるのである。
真理にふれ、
真理を知る事もできるのである。
人とは、
心なのであり、
心が人の実体、
命なのである。
この世の実相は、
空の世界、
心の世界なのである。
精神世界、
心世界なのである。
だから、
心が人なのである。
人の実体は、
命なのである。
空の世界には、
実なる世界が純然と存在するのである。
私は、
ハッキリと、
命において、
それを知っているのであり、
験証しているのである。
そこに、
神と仏の世界、
真理世界があり、
大きく存在しているのである。
人の、
生まれ行くところ、
帰りゆくところの世界があるのである。
人は、
それを正しく心して知らなくてはならないのである。
この世は、
心を正しく鍛え生む世界であり、
真の誕生を定める世界なのである。
だから、
人の真の誕生の道、
その世界を定める、母なる胎内であると思うべきであり、
知るべきである。
正しく、
強く生きぬく為の、心を鍛える、
心の道場が、
この世と思うべきである。
この世には、
その心を教える、
教科書が、
師が、
どこにでも存在しているのである。
天地大自然は、
その姿形をして、
それを教え、
人と人はその営みをして心を教え、
神と仏は人をして人に心を教え、
伝え、
導かしているのである。
心の大切さを、
知らしめる為に、
あらゆる本をして、事象をして教え、
知らしめているのである。
人は、
心してそれを知らなくてはならない。
この世に生きる、
その心、
魂で、
真の生命体の、
行く世界が定まるのである。
人は人として、
この世に心をつくる為に生まれてきたのである。
人は人として、
この世に心正しく覚めて生きる為に生まれてきたのである。
人よ!
だから、
心強く鍛えて生きるべきである。
自らで自らの命を、断つ自殺などは、
決してしてはならないのである。
人を殺すのと同じ間違いであり、
天の心に反する事である。
その人は死後の世界において、
その償いを、
しなければならないのである。
悪しき事を繰り返す人も同じである。
人は正しく生きる為に生まれて来たのだから。
何があっても強く正しく生きねばならないのである。
神と仏は、
多くの聖者、
聖人、
道者、
そして、
心ある人々をして、天、
真理の存在を知らしめつづけ、
人に正しい心を持って生きる事を教え、知らしめ導いて下さっているのである。
それは人が、
正しい心を知って、生きぬき、
正しく天に帰ってくるよう、
正しく生まれ得るように知らしめているのである。
人の真の生き方、
生きる道、
生きる心を教え、
知らしめ、
導いているのである。
人は、
この、
天の心を知って、
命の目的を覚めて、この世を、
心ある人間として、強く生きねばならないのである。
悪しき世界、
苦しみの世界、
悲しみの世界、
無明の世界、
この世に長く伝えられる、
地獄界、
魔界などに、
行かぬ為にも、
心覚め、
心改め、
この世を正しく生きねばならないのである。
この世での、
心の在り方、
生きざまで、
生まれる世界が決まるのだから、
自らの心を考え、
見つめ、
合わせ鏡と映して見る事である。
自らの心は、
自らが知っているのだから。
人よ!
決して忘れてはならない。
そして正しく心をして覚めかえりて、
天へと、
帰りゆく事であり、
神、
仏へと昇華しゆく事である。
人よ!
心が人であり、
心が人の生命である事を心して知るべきである。
今から心改め、
自ら反省し、
よく覚めて道を生きる事である。
真理は、
その命と、
一つにあって常に、
そこと導きゆくのを待つのである。
神も仏も、
かならずや、
その者を救い下さるのであるから。
神仏の言葉を信じなさい。
そして心こそを大切に生きなさい。
神は共に有りて、
有るのですから。
合掌
太陽の法嗣
大日天光子
オ一ン・アビラウンケン