はじめに
かつてギャンブルほど多くの民衆の時間と労力とお金とがつぎ込まれ、しかも研究者によってほとんど研究のなされなかった分野が存在するだろうか。
研究がほとんどなされなかった原因の一つは、日本の学閥社会における固定された(縦割りの)
学問体系であろう。若い学徒にとって、将来高等教育機関で教鞭をとるためのほとんど唯一とも言える方法は、影響力のある師を選び、その学問を認められることであった。つまり師(指導教授)と同じラインの学問こそが「正しい」学問であり、そこから逸脱することは教師としての道を半分以上放棄することに他ならなかったのである。「ギャンブル」という用語の持つ、暗くてうさん臭いイメージも、ギャンブルを対象とする研究が遅れていることの理由の一つであろう。
特にこのギャンブルという用語や性質に対しての意識という面で、日本は世界の後進国である。
多くの国において、ギャンブルは人々の生活に潤いを与える娯楽の一部とみなされ、罪悪感を伴う行為ではなくなっててきている。特に余暇の使い方や、レジャー活動に対する哲学が変化しつつある先進国においては後進国においては、この傾向が強い。現在、ギャンブルを罪悪視するのは、宗教や古い慣習によって一義的に生活リズムや人生の意味を決めつけられる社会がほとんどである。たとえ百歩譲って、ギャンブルに対するダ―ティーなイメージに正当な理由があったとしても、それを学問の対象びするかしないかということとは何の関係もない。
学問にタブーの領域があってはならないのである。本書は日本におけるギャンブル研究の遅れを少しでも取り戻し、軌道に乗せるための入門・概説書であり、この種のものとしてはたぶん日本で最初のものである。ギャンブルに関する研究は、もともと系統だった学問体系の存在する分野ではなく、他のいくつもの分野との学際的な派生的分野でるため、執筆を担当した者のほとんどは他に専門分野を持っている。欧米のようなギャンブル研究を専門とする学者ではないが、逆にそれが本書の強みでもあると言える。読者はさまざまな立場や視点から、ギャンブルというものを考える機会を与えられるだろう。多分にオムニバス的な内容であり、読者はどの章から読んでも何ら不都合を感じないはずであるが、本書は便宜上大きく構成を二つに分ける。一つは「ギャンブルの研究の方法」と題した第一部で、もうひとつは「ギャンブルと現代社会」と題した第二部である。
第一部の「ギャンブル研究の方法」は主として人格形成や人生のプロセスにおいてギャンブルはどう位置づけられてきたのか、そして日本の歴史を振り返る時ギャンブルはどういう役割を果たしてきたのか、といった問題を取り上げる。全体で七章から成り、特にギャンブルをこれから研究していこうとする人々に対し、基礎的な概念と、スタート地点としての知識を与える内容となっている。第二部の「ギャンブルと現代社会」は第8章から第13章まで六章から成り、読んで字の如く、現代社会においてギャンブルがどのような意味を持ち、そしてどのような問題点や矛盾を抱えているのか、といったトピックスを論じている。第8章と第12章はともに公営ギャンブルの問題を、そして第9章と第10章はパチンコに関する問題を扱っているが、その視点や論の組み立ては同じではない。両方合わせて読むことにより、より高次元の知識が習得できるはずである。第11章と第13章は将来に向けての経済的視点を取り扱っているが、特に最終章(第13章)のウイリアム・トンプソン教授はこの世界ではよく知られた論者である。日本の事例(第8章~第12章)を念頭において読むと、一層興味深く読めるものと考える。
手前ミソで恐縮だが、こうして全体を見ると、内容の濃い、なかなかの本が完成したなあと思う。
日本はギャンブル後進国かもしれないが、知識への欲求と真摯な努力とは、決して他の国にひけをとるものではない。いつの日か世界に新しい知識を発信し、ギャンブルというものを正しい方向に導くべくリーダーシップを発揮できる日が来ることを、そして本書がその端緒とならんことを強く望んでいる。
谷岡一郎著