おはようございます、落武者です。
今朝は、珍しく最近読んだ本について書きます。
落武者は、そこそこの読書家だとは自認していますが、元々底が浅い人間ですので、書籍の本質にまで深く読み込んだりはしませんし、当然中身など理解出来ないので、これまで本に関しては語ってきませんでした。
でも、今回読んだ著者:エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ「自発的隷従論」は、かなり刺激的な書物。
16世紀のフランスにおいて、わずか18歳(16歳との説もあり)の青年がこのような論文を書いていたとは、知らなかった己の不明を恥じるしかありません。
紹介してくださったバカ犬さんに感謝です。
本来ならわずか72頁の書物ですから、書籍そのものを読んでいただくのがよろしいかと思いますし、落武者の理解が足らなく、誤った紹介をするのが怖いので、抜粋を中心に紹介させていただきます。
この論を書こうとした著者の問題意識は、ここにあります↓
「これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧政者を耐え忍ぶなどということがありえるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけだ。」
そしてこの書籍、まるで現在の日本を見ながら書いたのではないかと勘違いする程のリアルさ。
言い換えれば、支配と被支配の関係は、古今東西変わらぬ普遍的な構造と精神を有しているとも言えます。
「圧政者には、三つの種類がある。ある者たちは民衆の選挙によって、ある者たちは武力によって、そしてある者たちは家系の相続によって、それぞれの王国を所有している。」
武力を金銭と言い換えれば、日本の現実にそのまま当てはまるではないか!
しかもタチが悪いことに、日本においては、これら三つが複合的に絡み合って、選挙区という王国の支配に結びついている。
「民衆が自分に委ねた権力を、わが子に与えようとする。」
これまた世襲議員が1/3を占める日本政治状況!
これも現代に通じます。
「いかなる悪をーときに重大な悪をーなすときにも、必ず公共福祉や公的救済について、なんらかの美事麗句をあらかじめひねり出しておく連中がいるが、このような者たちも、ローマの皇帝たちと同様、とてもほめられたものではない。」
政府や霞ヶ関の官僚に聞かせてやりたい言葉である!
所謂支配の道具としての「パンとサーカス」についても述べています。
「芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。」
もちろん、圧政者の下には、彼に追随する多くの取り巻き、まるで、今の日本の官僚たちのような者たちが存在している事もラ・ボエシは書いています。
「圧政者のまわりにいるのは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧政者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。」
では、なぜ民衆は自らの意思で隷従されているのか。
「自発的隷従の原因は習慣にある」
耳が痛くなるではありませんか!
所詮人間は弱い存在ですから、決断を他人に委ねた方が楽なのです。
しかし、愚かである民衆は、その決断による悲劇の責任は決して支配者は取る事は無く、全て民衆に押し付けられるのを知らないし、学ばない。
では、このような圧政の連鎖に対し、どのように対抗すれば良いのか?
それを断ち切るのは実は簡単な事。
「国民が隷従に合意しないかぎり、そのものはみずから破滅するのだ。」
逆に言えば、「自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受け入れるどころか進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。」と言える。
そのとおりです。
私たちは、自由への手段として先人が命をかけて勝ち取った選挙権を行使し、圧政者=反社的カルトに支配されている政党、カルトそのものの政党等に票を入れなければ良いだけなのです。
あくまで主権者は、私たちである事を認識しましょう(^^)v
- 日本国憲法前文を抜粋します。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
写真は或る夜の出汁様。
素晴らしい書籍です。
ぜひご一読を!
そして、今日は4/16。
四・一六事件の日。
戦前の日本共産党が弾圧された日。
私たちは思想信条、そして政治活動の自由を守らねばならぬのです。
そのためにも支配と被支配の関係をよくよく学ばねばなりません。