おはようございます、落武者です。
今日は、8/6です。
広島に原爆が落とされてから78年目。
大江健三郎氏が今年お亡くなりになったので、数日前から代表作の一つでもある「ヒロシマ・ノート」を再読し始めました。
政治的駆け引きや思惑とは別に、原爆病院で核廃絶を己の命の代償として求める患者たち。
核廃絶を求める被害者と広島の”にがさ”を知ろうともしない政党間の密室での駆け引きの虚しさとの落差。
これらは落武者自身、2歳から3歳当時の話なので、後日歴史的事実として知ったものです。
内容については、今更私が語る必要などありませんが、ただ、今の若い人には当時の原水爆禁止運動の置かれていた党派対立やその原因となった中ソ対立等々、理解出来ない事が多いでしょう。
しかも大江氏の文体は読みにくいものなので、若い人には投げ出さず最後まで読んで欲しいと願っています。
まずプロローグを読み、次に第5章「屈服しない人々」と第6章「ひとりの正統的な人間」を読んでから第1章に戻られた方がわかりやすいと思います。
被害者の善意(医療行為)を前提とした加害行為(原爆投下)ほど、人として卑劣なものは無いことが理解出来ます。
この本の本質ですが、冒頭のプロローグに書かれている下記の文章に尽きます。
『・・・沈黙することの不可をほとんどあらゆる思想家、文学者が口にして、被爆者に口をわることをすすめました。わたしはわたし達の沈黙の感情をくめないこれらの人々を憎悪していました。わたしたちは八月六日を迎えることはできません。ただしずかに死者と一緒に八月六日をおくることのみできます。ことごとしく八月六日のために、その日の来るのを迎える準備に奔走できません。そういう被爆者が沈黙し、ことばすくなに、資料としてのこす、それを八月六日、一日かぎりの広島での思想家には理解できぬのは当然です』
当時医大生であり、負傷した医師である父親の松坂義正氏を背負い、救護活動をした松坂義孝氏の大江健三郎氏に宛てた一文の引用ですが、この言葉は、78年経った今も私たちに突きつけられているものです。
落武者は大学で法学を学んでおりました。
ほとんど授業に出席などしなかった4年間でしたが、それでもいくつかの講座は熱心に受講しました。
その一つに「ソ連法」の講義があったのですが、当時ですら「ソ連法」を選ぶ学生なんてほとんど居なく、10名も集まれば良いくらいの講義でした。
ソ連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊してから32年経つ現在、ソ連なんて言ってもわかる人って少ないでしょねぇ。
教授は何歳くらいだったのだろう、50歳は超えていたと思います。
朴訥とした方で、毎回淡々と授業を進めていきました。
その最後の講義において、「今日は最後の授業なので、私の生い立ちと平和について語らせていただくことを許して下さい。」と語り始めました。
教授は広島出身で、子供の時に原爆で被爆したと。
当然、原爆後遺症に怯えながらの青春時代であったと申しておりました。
ただ、幸いにも目立った後遺症もなく成人したが、結婚する時に子供は作らないと配偶者の方に伝え、その同意を求めたそうです。
遺伝を心配したのでしょう。
続いて、原爆症の悲惨さとなぜソ連法を専攻したのか(戦後直後はソ連に対する幻想がありました。)、そして平和の重要性を訥々と語って下さいました。
そして最後に「平和は与えられるものではなく、絶え間なく作り続けるもので、子供の居ない私は、それをあなた方に託すしかないのです。」と結ばれました。
決して忘れることの出来ない最終講義になりました。
被爆問題は、決して日本の広島と長崎だけではなく、多くの核実験で被爆した人々がいる事を忘れてはいけません。
そして、広島と長崎の被爆者の方々の闘いは今も続いています。
下の画像3枚は8/4のテレビ。(お借りしました)
ヒロシマ・ノートにも出てくるABCC。
被爆地ヒロシマの中でも差別があったと言う出演者の言葉に衝撃を受けました。
映画「ひろしま」はネットで視聴出来ます。
黒い雨訴訟もそうですが、「はだしのゲン」が広島市の平和教育プログラムから外された事に対しても、落武者は危惧しています。
日本の核武装を視野に入れた政策を遂行するために、原爆の悲惨さを学ぶ機会を失わせていこうとしている現れとしか考えられません。
昨日のテレビ↓(画像はお借りしました。)
実は、ヒロシマ・ノートは2冊あります。
もう1冊は落武者父のもの。
当時をリアルで知っている落武者父ですので、本にはたくさん書き込みがありました。
父の新書もカバー付きですから、かなり後から読んだのでしょうね。








