おはようございます、落武者です。

 

以前、落武者のご先祖様が、奥羽越列藩同盟でもあった長岡藩出身で、北越戦争の際に逃れてこの落武者領国にたどり着いた話は書きました。

落武者母方の祖母の母親=曾祖母ですね。

それこそ、”長持ち”に隠れて峠越えをした身分ある姫様だったと祖母は話しておりました。

 

その話を聞いたのは、落武者が大学の頃で、もっと詳しく退避経路などを聞いておけばよかったのですが、当時はねえ・・・おにゃの子と遊びに行く事ばかり考えていたおバカでしたら^^;

いずれ機会があれば祖母の実家の現当主に、資料等や当時の話が語り継がれていないか聞くつもりなのですが、COVID-18感染が収まるまではなかなか行くことも出来ません。

 

さて、その母方の家系図。

3月の地震の後片付けをしていたら、父親書斎から見つかりました。

本家現当主が、古文書を調べてまとめていた事は知っていました。

一度・・・多分、落武者小学生の頃に見せてもらった記憶があります。

なぜ覚えているかと言うと、落武者の名前がなかったから(・_・;

本家嫡男(落武者の従兄弟)の名前はあるのに、なぜ落武者の名前が無いのかと不満に思ったのです。

まぁ、今考えれば既に傍流ですからねwww

そのコピーが見つかりました。

 

で、この家系図を見ながら、今、地元の郷土史や関係する歴史書、古文書等を読み進めています。

正直言って鎌倉時代以前の家系は怪しいと思っているのですが、隣の自治体に母方の苗字と同じ地名が今も残っており、そこの在郷武士だったとの記載あり。

戦国時代末期になり今の苗字を名乗るようになってからは、当主の生没年月日も家系図に記されているので、古文書にも載っているのでしょう。(1592年が現在の姓の初代生年月日)

落武者の藩には、家臣団の詳細な家系図が残されており、それらは順次刊行されています。

現在の姓を称する以前の家系図も残っていますが、どこまで正確なのかは不明です。

 


 

 

かつて落武者母は、「私の先祖は槍の師範代の家系だったのよ。」と言っておりました。

確かに本家には、槍が何本も残されていますし、そのうちの1本は領主から下された銘が刻まれています。

でもねえ、この師範代はかなり怪しいw

なぜなら、本家の家が城下の外れの職人が多く住む町にあるのです。

これは、城下の古地図にも当時の氏名入りで残されているので間違い無し。(今も同じ)

そして、その場所が城下南側の出入り口のすぐ側で、そこに関所というか番所というかそのようなものが存在していた記録があるので、そこを管理する侍だったのだと落武者は考えています。

戦国末期には、隣藩との境界近くの出城を任されていた記録が残っていますが、江戸時代以後は城下に住み、番所警護をしていたのでしょう。

 

ちなみに、苗字の漢字は決して難しいものでは無いのですが、ググると全国に12人しか居ない(°_°)

確かに落武者も、親戚以外で同じ苗字の方に会った記憶無し。

 

一方、父方の先祖はわからないですねえ。

いや、めちゃくちゃ有名人だと伝えられていますし、確かに父方実家の所在地や姓を考えても可能性はあるのですが、落武者は嘘だと思っています^^;

 

さて、今日は長岡藩を率いて北越戦争を戦い抜いた河井継之助の命日。

ひょっとしたら落武者曾祖母も河井継之助たちと一緒に、会津方面へ脱出したのかもしれませんね。