スイスの画家、パウル・クレーの作品、「新しい天使」
ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが愛した作品でもあります。
ベンヤミンは、『歴史哲学テーゼⅨ』のなかでこう述べています。
「『新しい天使』と題されているクレーの絵がある。
それには一人の天使が描かれており、天使は、彼が凝視している何ものかから、
今にも遠ざかろうとしているように見える。
彼の眼は大きく見開かれていて、口は開き、翼は拡げられている。
歴史の天使はこのような様子であるに違いない。
彼は顔を過去に向けている。
僕らであれば事件の連鎖を眺めるところに、彼はただ破局(カタストローフ)のみを
見る。
その破局は、休みなく瓦礫の上に瓦礫を積み重ねて、
それを足元に投げ出して行く。
たぶん彼はそこに留まって、死者たちを目覚めさせ、
破壊されたものを寄せ集め、組み立てたいのだろうが、
しかし楽園から吹いてくる強風が彼の翼にはらまれるばかりか、
その風の勢いが激しいので、彼はもう翼を閉じることができない。
強風は天使を、彼が背中を向けている未来の方へと、
否応なしに運んで行く。
その一方で彼の眼前の瓦礫の山は、天に届くばかりに高くなる。
僕らが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ」
歴史を見る私達は、その過去が必然のものとして生じたものであると、出来事の原因を調べることで
納得します。
全ての過去は説明がつくと理解されています。
過ぎ去った事柄ですから、過去を振り返る者は絶対的な立場で断を下すことが出来ると理解されています。
それ故、その時を生き、その都度の判断を下し、右の道を行くか左の道を行くかを決断している意思は、たとえそれが偶然であっても、必然的な判断だとしか理解されない。
その時の自由意思は自由ではないと審判が下されてしまいます。
しかし、新しい天使は、そのような過去を歴史とは見ない。
あたかも一本で連なっているような歴史など見ない。
新しい天使が見ている歴史は、断絶され、幾多の選択肢が広がり、そしてそれが収束し、また拡散する。
敗れ去って、忘れ去られていった人々の怨念を救い出す視点を新しい天使は持っているのです。
新しい天使は、歴史の連続性ではなく破局(カタストロフィー)を見ているのです。
新しい天使は、未来を見ることが出来ません。
未来は、新しい天使の背中の彼方にあるのですから。
破壊された過去を再構築し、未来を予言するために現れた新しい天使でさえも、見えない背中の彼方にある未来へと流されていく。
逆に言えば、新しい天使は未来を見ることは出来ないが、新しい天使を見ている私達は、新しい天使の背中の彼方に在る未来を見ているともいえます。
ベンヤミンは、迫り来る死の中で、新しい天使を通じて、どのような未来を見ていたのだろうか。
そして新しい天使の目に、2016年はどのように映っているのだろうか。
2017年は、どのような年になるのでしょう。
落武者は、正直なところ不安しかありません。
