「執着」は、ある体験やものごとにとらわれ、いつも頭から離れない状態のことを指します。
執着は、プラスやマイナスの両面があり、マイナスはメンタルを下げますが、プラスの執着はよい方向に進みます。
仏教的に執着を書きますと、苦脳の大元は煩悩や束縛からくるので、そこから心を遠ざけることを解脱と言ってます。
では、その「煩悩や束縛」をどうやって取るかと言いますと、「執着の反対語」は何かということにたどり着きます。
仏教的には、執着をとるには四諦八正道なのですが、仏教思想にあまり馴染みがないとイマイチ分かりづらいのです。
わたしがやっている学習は、仏教思想とキリスト思想、儒教思想もあるしイスラム思想も入っていますが、すべて原始の教えを学び私生活に応用しています。
なんなら武士道も入っています。
多様な思想を学び、多様な角度から理解していかないと、自分の心(潜在意識)が解らなかったのです。
仏教思想の執着の反対語は、キリスト思想にある「愛」ですが、「愛」は人に寄り添うような大切さです。
「自分はこんなに不幸だ」「自信が持てない」「自分の思い通りにならない」「愛する人を失った」「体調が思わしくない」といった苦しい思いは、自分中心のベクトルになってますので、「愛」の他者を思う気持ちからは外れているのです。
マイナスの執着は、マイナスの思いから離れようと思わないかぎり、いつまで経ってもマイナスから離れられないのですね。
「愛は大切な人を思う気持ちなのですね、分かりました」と思いながら、日常生活にもどると、そんな「愛の思い」を吹っ飛ばし、今までどおり自動モードの価値観(偏見)で生活してしまうのです。
わたしも、多思想を学んでいながら、20年近く自分の価値観で人と接してきました。
苦しさは、あなただけではなく、だれでもあり、皆が苦しいのです。
なぜ、この世界は苦しいのかは今までも書いてきました。
そんな映像を、阿字観瞑想で見せられたことがありますが、自分よりもっと苦しみの中にある人もいたのです。
個人的には、苦しみから離れるとき前後裁断をしています。
禅定瞑想の前段階で、今の苦しみや「これからよくなるだろうか?」と思う気持ちを断ち切ります。
何も考えない無心の状態でいると、自分に必要な映像がこころに浮かんできます。
その過去の苦しい映像を見つめながら、自分の愚かさや醜さに気づき涙します。
涙を流す(法雨)と、ひとつの苦しい執着が消えます。
「愛」に価値がなく、薄っぺらに思い行動していると、自分の苦しさの大元がわかりませんでした。
わかりやすい哲学書を読み、「いいこと書いてるな~」でおわり、その”いいこと”を身につけないと「執着を手放すことの難しさ」に直面します![]()
