負けるもんかSEVENTEEN'S MEMORY -518ページ目

南沙織とシンシア

南沙織と言う虚像とシンシアと言う実像がアイドルと言う偶像である。

ファンとしてアイドルのどこまでを知ろうとするのか?

追っかけをし、プライベートの隅々まで知ろうとする。
つまり、偶像の実像を如何に知りうることがファンの姿とするのか。

プライベートはけして見ようとはせず、たとへ見ても見ぬ振りをし、その偶像が発する言葉だけで虚像を作り上げることをファンとするのか。

現在では情報の多さでファンの間で後者のアイドル像を求めることは難しい。

私は後者だった。ファンとしてどうしてほしいなど言わない。ファンしてその偶像が発することが全てであり、その虚像を生涯すきであるわけだ。

今のAKBの演じている偶像に近い。がファンとしてはけして本人は遠い手の届かない距離にあえて置く。

南沙織と言う虚像を知り、シンシアと言う実像を知ろうとせずアイドルと言う偶像のファンであえてあろうとする。

私はそういうファンであった。

私の中の偶像は1978年で停まっている。
それにふさわしくない情報は聞かぬ振り。

だから、私の中ではシンシアは独身なのだ。子供もいない。と実像を歪める。

トイレも行かない(笑)
こりん星に還った(笑)

「南沙織のいたころ」を読み終えて

永井良和 著 朝日新書


特にファンとして新しい情報があるわけではないが。
著者とファンとしての立ち位置がよく似ていたこと、年齢も近く、まるで、

「シンシア回想録」を読んでいるようだった。


ただ、こう言う感情で70年代アイドルを見る立場のファンがそれほどいただろうか!
ましてやシンシアファンに多くいただろうか?

私のようにあからさまに、吉田拓郎のようなファンの在り方に反感を唱える立ち場である。

ある一方向からのファンの回想録でもある。


多分、コアなファンが買って一部のコアなファンに好まれる本だとおもえる。


まあ、そういう学術の域になってるのかもね(笑)

そうとらえるのも少ないかもしれない。

同じようなファンの立ち位置だったからこそ、

青春時代の自分史の一節を読んでいるようだった。


さらっと読み通したが、良かった。

しかし、誰にでも売れる本じゃないよね。

狭い範囲の人だけが幸せな本です(笑)

著者もそのつもりで書いたんだろけどね。

南沙織がいたころ

負けるもんか「よもやま楽式論」SEVENTEEN'S MEMORY-201109101455000.jpg

早速、見つけたので買った。

後でゆっくり。

南沙織の半生だね。