「俺たちの旅」50年 | 負けるもんかSEVENTEEN'S MEMORY

「俺たちの旅」50年

「俺たちの旅」の50年目が来年1月に放映されるらしい。

中村雅俊さんがメガホンをとるらしい。

監督、主演 中村雅俊

となる。

岡田奈々さんも勿論、出演。

デビュー50周年のアルバムも写真集もかった。


自分のこの50年。波乱万丈だったなと、

いまもだが、

丁度、岡田奈々さんの「青春の坂道」

女の子と付き合いはじめ、その後の歌の通りの青春。

で、ふられて、その理由が、

「ビアノの練習に集中したいから」


呈のいい別れる口実だったんだろう。


それから、私が音大を目指し始めたのは。

彼女は無事に遠くの短大のビアノ科に進んだ。

その後は知らない。


わたしゃ、高校の進路調査で勿論、

音大志望と書いた。

第一希望が某音楽大学の楽理学科


まあ、教員総出で叩かれた。一つは私の英語能力。酷かったからね。

希望の大学の楽理学科は英文科並みの英語が必要。ビアノはヒアノ科並みの実力が必要。

東京の某音楽大学の夏期講習にいってみた。音楽理論に関しては自信はあった。

しかし、案の定、英語とソルフェージュが追いついて行けない。ビアノは独学だが、そこそこ。

現役合格はさっさとあきらめた。

世間呈か親戚への建前か一応、国立大の教育学部を目指し一浪。

見事に失敗。

そもそも教員になりたいなどという希望はとっくに失せていた。

やはり、音大を目指そう。楽理は英語が鬼門。

教育音楽学科に絞った。

結果、地方の某音楽大学 音楽学部 教育音楽学科にしか受からなかった。

大学に入ると、教育には興味があるが教員には興味がない。

楽理学科が希望だったせいか、音楽理論系の学科は苦労はなかった事から、作曲の先生と親しくなり、いつの間にか作曲のアシスタントもどきになった。

最初の第一希望だった、東京の某音楽大学の聴講も受けにいった。


まあ、音大なんかにいってどうすると散々言われた。それは覚悟のうえ。音楽で飯が食えるとは思ってなかったが、地道に作曲活動はやっていたが、それでは飯は食えず、子供がで来たことで、勤め人になった。勤め先には恵まれなかったと今でも思う。

父が癌になり、死について考えるようになった。その頃、頭の中に流れてきたのが、岡田奈々さんの「青春の坂道」

やっぱり、食えなくてもいい、音楽がやりたいと言う思いがでてきた。

父が死に、勤め先には景気が悪く会社とも折り合いが悪い。

辞めて、残された田んぼの管理をしながら、作曲活動を本格的に再開。

その頃の曲調ははっきりしない。ただ、舞曲、宗教音楽、国民楽派的な音楽が好みだったか、その様な曲調が多かった。

日本的、民俗的、宗教的な曲を書きたいと思ったが、その背景をよく知らない。

学び直そう。と大学院へ。

仏教系の大学の大学院へ。


宗教音楽、仏教音楽。実に面白い。


これもまた食えない学問だ。

別に

坊主になろうと言うわけではない。


その後の作品は日本的、宗教的な題材を持った作品が多くなる。

コンクールでも受賞作品が何曲がで来た。

しかし、それで仕事ができる程、知名度も需要もないのが現実だ。

でも、生きた証がそこに残る。


いま、いなかでいろいろな祀り事がある。大学院で学んだこと、金にはならないが役には立つ。こと土俗的な宗教が面白い。

もう、無くなっていくんだろうな、こんな伝統的、伝承的な行事や文化も。



寂しくなると訪ねる 坂道の古本屋


なんか勇気がでて懐かしいんだよね