新作
朝の占いは良いことで、
こう言う日に限ってろくなことはない。
昨日、新作をかきおえた。締切間近、必着に間に合うだろうか?
作品の出来に自信があるわけではない。
日本語の歌詞と音を楽譜に表すことの難しさ。
日本語にほそれ事態に独自のアクセントや音の高低やリズムがある。
雨と飴ではメロディやアクセントは異なる。
「知って」は「っ」に休符がはいる。
「~のようで」は「よう」にある程度の長さの音符がいる。「ようで」は♩♪となるが♪♩とはならない。
日本語である限り、言葉を聞き取り安くメロディを付けるならかなりの制限が係る。
メロ先で歌詞を付けるとき付ける歌詞に合わせ多少メロディを変えないと伝わらない。
歌詞も曲も歌も一人でやるならこの不具合は自身の裁量で堂とでもなる。すり合わせが出来る。
しかし、作曲と作詞が異なるとこのすり合わせをしないと、聞きにくい所が出来る。
秋元康の作品がまさにそれ。まあ、あれだけ詞を書いて他にも仕事していちゃ作曲者とすり合わせをする時間なんてないだろうね。力関係だろうね、レコーディングに立ち会って細かい訂正や作曲者に変更させたり、歌手との調整もしていないだろう。現場に任せっきりだけど、大先生に詞を変えろとは言えないだろう。
ま、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる。
愚痴はここまで
日本語の音楽は楽譜だけで伝えることが難しいと言うことだ。
勿論、そのメロディは独特の障りやこぶし、しゃくり、溜めなど表現がある。そもそもが西洋音楽とは違い、平均律ではないし、西洋音楽にはない中間音が多。とても五線譜に表しきれるものではない。言葉や手本で説明する必要が多い。
日本音楽で記譜法が発達しなかった訳がそこにある。
西洋のクラシックは楽譜に書いてあることをいかに忠実に表現するか?だが、
楽譜に書き切れない日本音楽は楽譜に書ける限度がある。そこに、いつも悔いがのこる。
でも楽譜に書ききれなければそれは後世には残らない。
口伝ではどうしても少しずつ歪んでいく。
あとは、運に任すのみ。
当たらない、占いに一喜一憂するしかないのか?