命の重み
小林麻耶 妹でなく「私を召せば」発言を反省「書くことではなかった」
というニュースがあった。私も小林麻耶さんのブログの読者である。
「神様がいるならば、妹ではなく私を召せばよかったと思う」この投稿には心配の声が寄せられた。それにこたえ
「心の底の悲しい気持ちを書くことではなかったと、反省中です」
「そうですね」と賛同すべきことではないが、批判すべきことでもない。
わたしもそう、ブログを書くってことは、心情を吐露することで気持ち落ち着かせる。気持ちが楽になる。
まあ、私は知名度があるわけでもなく匿名だから、人に読んでもらってどうしようなどということはさらさらない。
話し戻って、
人は人の命と自分の命を天秤にかける。
特に縁も無ければ、平等に思う、
気に入らなければ、さげすみ、「憎まれっ子世に憚る」と皮肉の一つも思う。
しかし、肉親となれば、特に、自分のほうが年上だったりすると、自分が変わりにと思うのは当然あり得る。
親が子供お思う。兄弟を思う。など
その時、の命の重みの判断は、年齢だったり、世間的地位だったり、自分の置かれている身、立場の比較である。
わが子に対しては、年取った親からすれば、短い余生など、と、
社会的に地位もなく、役立つほどの人間でないと思えば、兄弟等で社会に必要とされる評価される人がいれば、
自分には、幼いこどもがいなければ、慕うこどもがいる親と比べる。
この命、召されることで、代わりにその人が生き返るなら、寿命が延びるならとおもうのは、当然のことである。
しかし、そんなことが起こることはありあない。
だからそのつらさを、どこかに吐き出すことしかない。
そうしないとやり切れないのだ。
そして、自分みたいな非力なものにできることは、ただ生きることだと思うのかもしれない。
それが、役に立たない神への当てつけなのだ。