不謹慎狩りの背景
サンデージャポンで大田光が、
「本当は大半、なんにもできないで当たり前じゃないですか? 自分の生活で目一杯なわけだから、みんな。誰もがなんかやってるワケじゃない」「根底には優しい気持ちとか、日本人って真面目だから、できない、もどかしい自分を責めてる気持ちが他に行っちゃってるような気もして。ちょっと切ないような気持ちもある」と、
わかる気もする。
だれしも、なんだかの貢献をしたいとは思っている。できないもどかしさもかかえている。
経済的に何もできない、日々の生活に負われている人がほとんどである。
誰だって、金銭的な余裕があれば何十万。何百万と募金に参加したいと思っている。
しかし、明日の生活、将来の生活、ひいては今日の生活に精いっぱいで募金できる状態ではない。
そういう人がほとんどである。せめて街角の募金箱に財布の中の小銭を入れるのが精いっぱいである。
そう思えば、できない自分との葛藤はある。それは大きなストレスでもある。
何十万、何百万と募金をしたと発表できる人をうらやむ気持ちにもなる。
彼らの行為を称賛する気持ちがある反面、その行為に付加する不謹慎を叩くことで貢献するしかすべがない。
確かにそれが行き過ぎた不謹慎狩りにエスカレートするところがある。
ボランティアや著名人の発言に対する不謹慎狩りも同様だろう。
日々の生活に負われ、ボランティアに参加したいけどできないもどかしさ。
たとへ、ネットで発言しようと何の影響力もない自分へのもどかしさ。
そういうもどかしさを抱えている人は多いと思う。
せめて、それは「不謹慎」だと指摘することで貢献できればと思うのも事実であろう。
これが少数の人々なら、炎上することもないのだろうが、かなり多いのではないか。
行き過ぎた不謹慎狩り、さしては、誹謗中傷に発展することは避けたいが、
発信する側の、言葉一つで避けられるのではないか。
称賛される人もいるのだから。
寄付したくてもできない、ボランティアしたくてもできない、自ら提案し宅ても知名度がない。
難しいだろうが、そういう人への配慮が欠けた言葉や行動が「不謹慎狩り」にあうのではないだろうか。