May.J vs 松たか子
巷では、May.Jの
ありのーままのー
と、松たか子の
ありのーままのー
が比較され松たか子に軍配が上がっている状況。
May.Jは歌がうまいが伝わらない
とする声が多い。
わたしは、けっして、松たか子がMayJに劣るとは思わない。
カラオケを歌ううえで、その評価基準は、日本語の表現能力ではない。
音楽的な表現の数値による評価でしかない。
松たか子がいいというのは、日本語の発音をきちんと意識して歌っていることになる。
MayJの歌が日本語になっていないというわけではない。
日本語のイントネーション、強弱、日本語が持つ障りをきちんと意識して歌っている。
さわり とは、微妙な言葉の一語一語に着く異音、擬音なのである。
松たか子は正確に音程をとることより、言葉の障りを大事に歌っているのである。
それは、日本人にとって感情的に判断されるところなのだ。
MayJは音程にをとることに抑揚を加えることで訴えようとしている。
抑揚は時に日本人にはうざく聞こえる。
たとえば、
「姿見せるのよ」を歌う場合
♪♪♪♪♩ ♪♪‿♪♩ ♪‿♩ 休符
みせーる
の 「せー」 は 「せぇ一」 と歌う
子音の s が前打音となって、微妙にすくいあげる。
演歌だったら意図的に子節づけするだろう。
るーのーよー
のシンコペーション、洋楽ではアクセントがつく。
しかし、日本語としては、
「の」 と 「 よー」をグリッサンド気味にスラーでつなぐ。
本来の日本語の特色をできるだけ表現しようとすることで感情が伝わる。
音程を性格に取ろうとすればするほど、この日本語の特性は失われる。
西洋音楽の七音階は平均律である。
しかし、日本人は古くより五音階に親しんできた。
それは、ドとファの間に音を一つ置くという音階である。
この一つ置く音を微妙かつ巧みに扱うことで日本語を表現してきた。
ヨーロッパ言語が強弱で表すに対して日本語は高低の違いに置く。
雨と飴の違いである。
これを、伝えるためには、微妙な音程操作が必要になる。
そこに、大事にしないと日本語は伝わりにくい。
つまり、音程をある程度の無視しなければ成り立たない。
そこに、MayJの歌がうまいけど伝わらないという原因がある。
それを知らないで、不満を言おうとも受け入れられない。
反感を買う理由だろう。
日本の歌は言葉を優先にしないと伝わらない。