佐村河内守問題に見る『文春』の記事の新垣発言の一考察
『週刊文芸春秋』(2月13日号)の記事を引用
>『新潮45』(13年11月号)に載った音楽家・野口剛夫による論考『「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か』を読んで(中略)ほとんどマーラーの交響曲の焼き直しのような響き」
ほとんどの音楽関係者の感想はこれに近いものである。つまり、専門家からみれば、創作性が見られない評価の低い作品にすぎない。
このことを新垣氏も認識していたことは、佐村河内に宛てたメール
>「第三者によるほぼ真相を突き止めてしまったもの」
としている。
つまり、私たちのように現代音楽を専門に学んだ者にとっては、佐村河内の作品は、全聾で書かれたとすればは、その努力は評価するが作品の出来を評価するものではないというのが、一般的感想である。
それは、専門家の共通した認識であろう。また、それを同業の作曲家が指摘すれば、素人目からは、やっかみととられはしまいか、という思惑があり誰も公に口にすることはなかった。
しかし、マスコミの持ち上げようは度を越しているようにも思えたことは確かである。
>音大作曲科に進んだ時点で、「卒業したら失業者」を覚悟しなければならない。
これは、私も以前書き込んだが、作曲科に限ったことではない。演奏家など含め、それを生業として行ける人はごくわずかである。教師、音楽隊などの公務員になれなければ、他の職業に就くほかにない。
まあ、女性は結婚までの腰掛として、楽器店などの店員などの兼任もあれば、ましな方。ホームレッスンという逃げ道もあるが、それは、男性の生業としては認めてもらえないだろう。
新垣氏は桐朋学園大学作曲科の非常勤講師。一般的地位は非正規雇用。アルバイト的地位にすぎない。
しかし、音楽をするものにとってはそれもまだ恵まれた環境であり地位でもある。
>自分が作曲した作品が映画音楽であれゲーム音楽であれ、多くの人に聞いてもらえる。その反響を聴くことが出来る。そのことを純粋にうれしかった。
この言葉は、痛いほどわかる。しかし、それで、ゴーストライターとして仕事をうけるかどうかは別の事だ。
現代音楽の作曲家としてプライドがある。
そのプライドは、他の一般音楽とは制作過程に違いがあるからであろう。
>現代音楽の世界では、自作の曲を人に聞いてもらおうと思ったら、自分でホールを借り、演奏家を頼み、交通費を払って練習場も確保して、やっと一日だけ、親戚や仲間が集まってくれる市民会館程度で演奏できるだけです。
これも事実です。そのためには、現代音楽の作曲家は楽譜が読めること書けること、時によっては指揮棒も降らなければならない。そのどれ一つ佐村河内はできない。ならば、佐村河内に作曲などできるはずがない。
これらの、基礎的に高い技術を持ち合わせているという自負があるから、現代音楽において、一般人相手にゴーストライターが成立しがたいゆえんでもある。
それにしても佐村河内の自腹で200万出して録音するし、CD売り込み、演奏会、楽譜出版などのプロデュース力はすごいものがある。
最初からプロデューサーとして曲に携われば問題はなかった。評価も高かったはず。
しかし、障害者を装うなら、それ、すべて水の泡。