あたたかい
「眠いのですか?……郭嘉。」
「いや……」
「もう半分寝ているようなものじゃありませんか。」
「そんなことは……」
ただ少し
疲れているだけ。
「ふふ……。まるであなたが幼い頃のようですね。」
幼い頃……ね。
「あなたとお喋りしているとつい時を忘れてしまって……気づけばとっぷりと夜が更けていることもしばしばでした。」
そう。だからいつも途中で眠ってしまった。
あの頃は
「寒い夜はあなたに風邪をひかせてはいけないと掛け物を探したりしたものですけど、あなた自身がずいぶんあたたかいものだから……ふふ。」
「ああ、それで……」
「そう、それでこっそりあなたで暖をとっていたんです。そしたらうっかりそのまま眠ってしまって。」
それで、目が覚めたらいつもあなたの腕の中にいた。
あの頃既にあなたは清らかで穏やかで美しかった。そして誰にも入りこむことのできない聖域だった。
決して拒絶しているわけでもなかったはずなのに。
その隠された内側はどうなっているのか、毎日想像した。けれど答えは知りたくなかった。その方が何通りものあなたを思い浮かべることができる。
それなのに、懐から眺めたあの寝顔ときたら……
最初に浮かんだ単純な答えの通り。少しも品を損なわないまま、おそらく誰にも見せたこともないであろう“隙”を覗かせて。
やっぱり美しい。
思っていた通りだ。なんてつまらない。
つまらないのに、静かな寝息を漏らす唇から目を話すことができずに……そのまま沈むように眠った。
あれほど幸せで苦しい時間はなかった。
結局、あれが全てになるのか。
「あの頃と同じように……とはいきませんが、久々に一緒に微睡んでみませんか?」
「嫌ですよ。」
「別に子ども扱いしているわけではありませんよ。」
「それはどうだか……。」
普通は大の大人の頭をこんな風に撫でたりなどしない。
あなたの目に映る私は、今も安心して甘やかすことのできる幼子のまま……か。
荀彧殿の腕の中は変わらず心地よいのだろうな。
だからこそ
「嫌……だ。」
そこへ行くと、すぐに眠りに落ちてしまう。
ずっとお喋りしていたいのに。
そのぬくもりも、ずっとずっと味わっていたいのに。
せっかく一緒にいるのに。
やっとあなたに追いついたのに。
ねえ、私はもうあの頃とは違うでしょう?
その腕の中に体ごと納まっていたあの頃とは。
ずっと難しい話もできるようになった。
軍略にかけてはあなたよりも鋭い策をあげることだってできる。それをあなたがどう思うのか聞いてみたい。
ちょっとお堅いご高説だってお説教だって、あなたの口から出る言葉なら何だってずっと聞いていられる。
どこぞで花が咲いただの、風が吹いただの、そんなつまらないことだってあなたといれば本当に魅力的なもののように思えてくる。
こんな格別の空間にいながら意識を手放すなんて……
ふわり……
!
「ふふ……心地良い。」
「……珍しいですね。」
あなたからこんな風に触れてくるなんて
「やはり子ども扱いしているでしょう?」
「今なら逆のこともできるのでは、と思って。」
「逆?」
「恥ずかしながら、少し幼子に戻ってみたくなりました。」
「あなたが?」
「ご迷惑でなければ、少しばかり懐を貸してください。」
「……ハハ。」
「おかしいですか?」
そんなことわざわざ口に出さなくても……
なんて礼儀正しい幼子。でもきっと本当にこういう子どもだったのだろうな。
「幼い頃の荀彧殿か。それはそれは可愛かったのでしょうね。」
「……お戯れを。」
「見てみたかったなあ。」
「大人ぶってかわいげのない子だと言われて育ちました。自覚もあります。」
「それは酷い。」
確かにこの人がはしゃぎ回る姿なんて想像できない。悪戯なんてしたこともないだろうな。行儀よく聞き分けよく……大人にとってはこの上なく扱いやすい子どもだっただろうに。
「……くっ。」
それにしても、そんなことを長じて尚気にしているなんて。
「何です?」
「いえ、私がそばにいたらこれ以上ないほど愛でてあげたのに、と思って。」
「……なぜでしょう。いかがわしく聞こえます。」
「心外だなあ……」
「日頃の振る舞いのせいですよ。あなたこそ昔はあんなに可愛かったのに……」
「アハハ。私は今でも可愛いでしょう?」
「全く……」
目に浮かぶ。
「きっと大人たちはあなたを揶揄っていたのですよ。」
それを真に受けていまだに引きずっているのか。
「けれど下手くそだなあ。私ならもっと……」
そう、少なくともあなたを傷つけない揶揄い方をいくらでも……
「そう言うところが可愛いんですよ。」
・・・・・・
「ハ?」
「子ども扱いされるのは嫌がるくせに、そうやって子どものフリをしてじゃれついてくる……」
「じゃれ……」
そんな風に思われていたのか?
!
ぎゅ……
「可愛い……」
…………
「本当に……今日はどうしたんです?荀彧殿。」
「………………おかしいですか?」
ええ。
おかしいですよ。とても。
だけどそれを口にするのは得策じゃない。
「あたたかい……」
「あなたの方が先に眠ってしまいそうじゃないですか。」
「……嫌です。」
「疲れてるんでしょう?」
ここ最近はずいぶん忙しそうだ。普段から相当忙しい人だけど、決してそんなそぶりは見せない。だからそう見えるということはよほどなのだろう。今日は少し時間が空いたからと顔を見に来てくれたけど。
空いた……というよりは、空けてくれた。そう思い込んでもいいのかな。
「いいんですよ。このまま眠ってしまっても。」
「…………嫌です。」
「もう半分寝ているようなものなのに?」
「せっかくの……あなたとの……時間……。」
「ハハ。」
すぅ……
「どうしようかな……」
告げるべきかどうか。
告げなくても気づいているのかもしれない。
きっと気づいている。
あなたも今を惜しんでくれているのか。
ああ、それでも
私の気持ちには気づいていないのだろうな。
誰よりも聡いのに、こういうことには驚くほど疎い人だから。
それとなく言葉や仕草に乗せて……なんてやり方は悲しいほどに通じなかった。けれど直接的な言葉で伝えてみると、今度は冗談だと取られてしまう。「日頃の行い」とやらのせいで。
……事実、冗談めかした言い方にしたのだけど。
どうしてだろう。どれほど真面目に、真剣に伝えようと思っても、茶化したような言い方にしかならない。いつの間にかそういう癖がついてしまったらしい。だから信じてもらえないのも無理はない。
「……それでもいいか。」
せっかく一緒にいられるのだから、おしゃべりをしたり触れ合ったりしていたい。
だからあなたが眠ってしまったのは寂しいけれど、昔とは違う形であなたの寝顔を眺めていられるのだからよしとしよう。
苦しいけれど、間違いなく幸せな時間。
余計なことを伝えて戸惑われたり、距離を置かれたりするよりはよほどいい。
「……情けないな。」
本来なら、そこからどう攻略していくかを考えるのが一番楽しいはず。
すっかり日常になってしまった悪ふざけの中から、どう本心を伝えていくか。状況を見ながら、顔色を見ながら、あなたのことを考えながら……。そう多くはないはずの好機が訪れた時、どう切り込んでいくのか。
その時の緊張感と高揚感は戦をも上回るのかもしれない。
だけど残念ながらそんな時間はない。
眠れるわけがない。
今の私の目にはあなたが映っている。腕の中にはあなたの温もりがある。眠ってしまえばそれを感じることができない。
眠るあなたを見つめて幸福と少しの寂しさを覚える時間はとても貴重だけれど、眠る私をあなたが見つめる時間には少しも価値がないのだから。
あの世というのは本当にあるのだろうか。
空から見守る、なんてよく言うけれど本当にそんなことができるのだろうか。
私はあなたを見つめ続けることができるだろうか。
もしあなたが私を想ってくれたとして、それに気づくことはできるのだろうか。
夢も見られない深い眠りに落ちるのか。全く新しい次の世界に行くのか。完全に無になるのか。
いずれにせよ、あともう少し。
「ずっと一緒にいたいね……荀彧殿。」
「……ええ。」
「!」
このまま一つになれたらいいのに。
消えゆくあなたの体でも、置いて行かれる私の体でも。どちらでもいい。
一つになってしまえば、どこでだって……
どこでもなくとも一緒にいられる。
「起きていたのですか。」
「ええ。」
本当は、あまりの心地よさに沈んでしまいそうだった。名を呼ばれなければ危うくそのままだったかもしれない。
「息は……苦しくはないですか?」
どうしてこの人が。
こんなにも才に恵まれて、まだ若いというのに。この人を必要とする場所が、人間がまだまだいるというのに。
代われるものなら……と何度思ったか。
「ああ、大丈……………」
ヒュッ……
!
「ッ……ッグ……ゴホッ!!!」
「ああ、もう……全然大丈夫ではないじゃありませんか。」
「あなたが……ケホッ……あなたが言うからついッ……つい、思い出してしまって……」
「そんなことがあるものなのですか?」
「そういうものなんですよ。一度弾みがついてしまったらもう……ッ」
「ああ、それは……申し訳ありません。」
「でも……ケホッ……これはこれで……」
「え?」
「ふ……私が一つ咳をするたびにあなたがこうやって背を撫でてくれるのなら……ハハ、多少の息苦しさも悪くはない。」
「また馬鹿なことを……」
“多少”なんてものじゃない。こうやってぬくもりを確かめていなければ不安になるほど痩せ衰えてしまって……苦しいのはもう息だけではないはず。
馬鹿なことを考えたのは私だ。
代わることも分け合うこともできない。ならば一つになれたらいいのに……と。
惜しいのは、この人の才でも若さでもない。
「そばにいてほしいなあ……」
「え?」
「ほら、またいつ苦しくなるかわからないから。すぐに背を撫でてもらえるように。」
「またそういうことを……」
「私にとってこの手は……あなたは特別だから。」
「だからまた……」
揶揄われている。きっとそうに違いない。
けれどただそれだけではないと、そのふざけた言葉の中にも少しくらいは……
少しくらいは、親しみより一寸先の気持ちが込められていたなら……
あなたのことだ。私がこんなことにすら縋っていることなど、とっくに見抜いているのでしょう?
だからいつもこうやって揶揄ってくる。
けれどそれでもいい、と。それすら惜しいと想っていることまでは、さすがのあなたも気づいていないでしょうね。
「この厄介な咳も死んだらおさまるだろうけど、ちゃんと楽にはなるのかな。」
「なんてことを言うんですか。冗談にしてもタチの悪い。」
「単純な疑問だよ。ただの知的好奇心。ねえ、あなたはどう思う?唯一無二の、だけどすっかり重苦しくなってしまった体を失うとはどういうものなのだろう。ずっと付き纏っていた苦しみがなくなったら、逆に戸惑うかもしれない。いや、もしかしたら体がなくなっても苦しみはついたままなのかもしれない。」
縁起でもない話。それなのに
「……そうですね。」
どうしてあなたは興味深い問いに変えてくるのか。
「よく、想う人間がいれば身体は滅びようとも人は生きている……なんて言いますね?」
「うん。」
「けれど苦しんだ姿しか知らない人間は苦しんでいる姿を思い浮かべるほかありません。となればその死者はやはり苦しんでいる、ということになるのでしょうか。」
「恐ろしいことを言うなあ……」
「死んだら楽になれる、というのは所詮願望に過ぎないのかもしれませんね。」
苦しんでいない姿も知っていれば特に。
「いずれにせよ、残され想う側にとっては残酷です。」
「死してなお苦しむ人間よりも?」
「死者が死してなお苦しむのかどうかはわからないでしょう。やはり多くの人間が望むように、苦しい体を失えば楽になるのかもしれません。あるいは……」
……いや
「確かなのは、死者を想う人間にはずっと悲しみがつきまとうということです。」
「忘れたら楽になるのでは?」
「どうでしょうね。」
これまでも多くの人々の死を受け入れてきた。多くは弔いと共に気持ちを整理して、穏やかに思い出す存在となった。けれど
「苦しいほど想う人間のことを忘れられると思いますか?」
「ハハハ。」
忘れられるわけがない。
「やはりあなたと話すことはたまらなく楽しい。」
「本当に……」
呆れるほどに。
「寂しいなあ。」
「…………ええ。」
とうに窺い知れていたこと。
「辛いなあ。」
「……………………ええ。」
「そもそも死後の世界自体存在するのかな?」
「まだ続けますか、この話。」
「一度疑問が湧くと止まらなくて。寂しいからもうしばらく付き合ってくださいよ。」
…………
もし、あなたが私とともにあれないことを辛いと感じてくださるのなら、
「死後の意識などない方がいいでしょうね。」
「では完全に『無』になるのか。」
どうであれうらやましい。
私はあなたがいない日々に耐えていかなければならない。
「死ねば再会できる世界がある……なんて発想は救いになりませんか。」
「再会できるのなら早い方が……と思うようになってしまいそうです。」
「物騒……」
「それに生きていればなすべきことが山ほどありますからね。一刻を争う仕事が停滞して周りに迷惑がかかるとなれば自由に死ぬこともままならない。」
「アハハハハ!!!あなたらし………………ッ!」
「ああ!」
「ゴホッ!!ケホッ……ッ……。」
「申し訳ありません。どうもつまらない方向に頭が向いてしまうのです。」
「……つまらなくなんかない。大事なことですよ。あなたがいなければ何もかもが回らない。あなたはこの世に必要な人間なのだから。」
「そんなこと……」
「それに会える場所があるという保証は何もない。」
「……ええ。」
「やはり辛くても生きててほしいな。」
酷なことを
「忙しくしていれば辛いと思う暇もないでしょう?」
忘れてもいいのですか?
忘れられない。
それは既に証明されている。どれほど仕事を詰め込んでも、あなたのことが頭を離れなかった。どれほど体が疲れていてもあなたのことを考えてしまって眠れない。あなたに会うためにここに向かう足を止めることができない。
あなたが死んだ後にもきっと……
ポロ……
「荀彧殿?!」
考えたくない。
「郭嘉……」
「はい?」
「苦しいですか?」
「え?」
「咳は……病は辛いですか?」
「それは……まあ……」
「耐えてください。」
「………………厳しいなあ。」
「あなたが生きてください。私のために。」
何を言っているのだろう。私は。
「病苦に耐えてください。」
「荀彧殿……」
「私のために。」
だけどそれ以外に考えられることはない。
なんて残酷な。
「わかった。」
「え?」
「あなたと一緒にいられるのなら、いくらでも。」
「……本当ですか?」
「ええ。」
嘘はいけませんね。
郭嘉。
「だから……ほら。泣かないで。おしゃべりを続けましょう?」
ああ……
「ずっと一緒にいたいね……荀彧殿。」