はるかなる戦闘の記憶 20100808  | 6rosui8のブログ

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父は元気だった。朝9時頃家に行くともう、自分の部屋で紙を切って、折り紙を作っていた。それが父の日課になっているのだ。「もう朝ご飯は食べたの?」と聞くと、「ああ」と答えた。本当に食べたんだろうか。87歳の父は半分認知症なのだ。

 

隣の家の△△さんが亡くなったよ。町の掲示板に訃報が貼ってあったことを父に言うと、「最近見ないな。ほとんど話しもしていない」と父は答えた。この近所の人たちは皆、奥さんの方が先に亡くなっているねというと、「そうだな、80過ぎたらいつ死んでもおかしくない」、「ところで誰が死んだんだ?」と父は惚けていた。

 

父は今のことはほとんど覚えられない。でも昔のことはかなり覚えている。「戦争に行ったから、いつ死んでもおかしくなかった」、「戦場に行くと怖いとかそういう気持ちは沸かない、死んでも良いと言う明るい気持ちになる」と父は言っていた。

 

「戦闘機乗りなんか命令一本で転々と戦場を渡り、死とはいつも隣り合わせだった」戦闘でパイロットが少なくなると、補充のためにいろいろと戦地を移ったらしい。インド、ビルマ、タイ、シンガポール、インドネシアなど。「しょっちゅう移動したので、もう忘れた」

 

 

そういう激戦の中で生き延びたのは、運が良かったとしか言えない。飛行機の数もパイロットの数も少なくなって大変だったらしい。そういう中で、終戦のとき台湾にいたことは、本当に幸運だった。台湾にいなければ日本には帰れなかっただろう。隼の片道燃料で九州の雁ノ巣に帰って来たのである。

 

もうはるかに昔のことなので、父ももう忘れかけている。ただ65年前、20歳の父が東南アジアの戦地を戦闘機に乗りながら戦い、空中戦で肩を負傷しながらも生き延び(父は右肩が下がってしまった)、そしてその戦闘機(隼)で日本に帰って来たことは確かなことなのである。私が生まれたのはそれから幾年も過ぎた後のことである。