REPORT - 0802│朝霧高原の廃牧場(朝霧高原酪農専業地域跡)
静岡県│朝霧高原の廃牧場
滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 朝霧高原の廃牧場
詳細が全くの不明で解説出来る事が殆どない、そんな物件をネタ切れの繋ぎとして紹介させて欲しい。場所は富士山の麓からも近しい朝霧高原、その名の通り一年を通して朝霧が濃い事で知られる。避暑地やツーリングロードとしても知られる国道135号線の途中に位置する今回の物件、以前より気に成っていたのだけれど今回やっとこさで行って来た。
最初に断っておくのだけれど本当に情報がゼロでして、現地でも調査や行政に残る資料からもこの廃牧場が如何なる経緯を辿ったかを知る事は出来なかった。帰宅後の机上調査でもヒントは在っても決定的な情報を得る事は結局適わなかった、こんな事は初めてだったので少々意地に。絶対にコイツの詳細を調べてやるぞうって感じで今回は写真のみのレポートを、本当申し訳ない。
アバンも短めにさっさと始めますか。
![]()
朝霧高原を縦断する国道135号線、本栖湖方面より新東名へ向かって走っているとちょっと面白そうな廃墟が目に入ってくる。丁度朝霧高原の中央に位置するこの廃墟はその出で立ちから牧場の残設物件らしい、歴史を辿る残留物が殆どない為に確証は持てないのだけれど廃農場(仮)と言う事で話を進めて行こう。
農場入口にはスライド開閉門のレールが残されていた、この他にゲートは無かったのでやはり入口はココで間違い無さそうだ。この場所から見る限り建造物は4棟、近づいてその用途を確認するとしようか。
天候が素晴らしく良い、それなのに薄ガスの所為で直ぐそこに聳える富士山が全く見えない。快晴でガスも無ければ右側に大きな富士山が見えた筈だ。眼前には雨ヶ岳と竜ヶ岳がハッキリと見える、それなのにー。
最初にお邪魔するのは入口に一番近い左側の作業用器具の倉庫、生い茂る夏草の隙間から幾つかの残留物が見て取れる。さて、ココでもヤッパリと藪漕ぎですか、そうですか。
残されていた作業用具だけれど随分と古い様だ、どれもこれも錆び付いて赤い。4棟の中で一番風化が進んでいて柱も折れている、倒壊も時間の問題だろう。
一番奥に位置して最大の建造物、牧草の加工工具や給餌用具などが保管されていた正面入口はこの通りだったので側面のスライドドア(トラクターや軽トラが出入り出来る大きなドア)から入るとしよう。
photograph:+10
中は意外と綺麗だ、ココでもこの物件のヒントに成る様な物は発見出来ず。
一度外に出て隣の作業倉庫へ移動、がその前に気に成る事が出て来た。この農場、建物に対して予想される農場の敷地面積が余りに大きい。と言うよりでか過ぎる、携帯で航空写真を確認してもやはりちょっと規模がオカシイ。
そこでいつもの様に机上調査開始、行政さんには町歴などの歴史資料をお願いした。
1935年までは朝霧高原の旧地名である八ケ村の入会地として地元農家や隣接する村の飛び地酪農が行われていた原野で利用敷地面積も少なかった様だ、しかし1937年に旧陸軍の演習地として接収され終戦の1945年まで14歳から19歳が学ぶ陸軍少年戦車兵学校の演習場として利用される事に成る。
元々は我が地元の千葉県に編成された千葉陸軍戦車兵学校の少年戦車兵の生徒隊が発祥、陸軍少年戦車兵学校新校舎完成に伴い静岡県富士宮市に移駐。これによって朝霧高原一体が演習地として利用された訳だ。
終戦の翌年と成る1946年、緊急開拓事業の国営開拓地として自作農家創設事業が開始。長野県阿南町を中心とした15歳から20歳の青年が分村計画の元集団入植、原野を覆うススキを刈り入れして開墾作業を開始します。
朝霧高原の開拓史によると「穀物は実らず、葉物は茂らず、根物は太らず」と在り、戦後の食料増産計画の一旦を担ったものの火山の麓故の痩せた大地と肥料の不足、そしてまだ戦後の混乱から脱していない為の作業工具や機器も不十分な為に失敗の連続でした。その後1949年までの4年間でこの高原での農業を諦め、翌年の1950年には種穀農業から畜産農業への転換を図る事に成ります。
1954年、今でこそ朝霧高原を代表する産業と成った酪農ですが高度集約酪農地域の指定を受ける事が出来て今後の酪農産業の出発点と成ります。国有貸付牛事業を導入しニュージーランド、オーストラリアからジャージー種250頭余の導入を図り、酪農専業地域としての第一歩を踏み出します(朝霧高原の開拓史:朝霧高原の酪農から一部抜粋)。
暫くと牛舎は無く野草地への放牧が主体の酪農方法でしたが1955年辺りから草地改良事業が採択され、1967年辺りからは中小規模牧野改良事業、大規模草地改良事業等の草地改良整備が実施。飼料基盤の整備と共に農業構造改善事業による近代的施設の建設も進み、より生産性の高いホルスタイン種への移行と相まって、現在の富士開拓酪農地域としての基盤が確立されてきました(朝霧高原の開拓史:朝霧高原の酪農から一部抜粋)。
この時期から経営拡大を志向する農家が増加した反面、小規模農家の離農も目立ち始めたと記録に在ります。この物件はこの転換期に離農した牧場と推測出来る幾つかの現状が垣間見れのですがうーん、やはり良く解りませんでした。
放牧は大規模な牧草地を必要としますが事業としては小規模な為に牧舎や倉庫は大きくない、木造と現代建築が入り混じる牧場跡。1970年代に離農した小規模な牧場…と言うのがウチでの推測の落とし処だったります、その後に残った酪農家は少数ながら規模を拡大して行きます。
そして現在、朝霧高原は酪農をメイン産業として観光地化も成功。沢山の商品も開発されている現状をみても農業を廃止して酪農化へ進んだのは大成功だったと言えるでしょう。
因みに高原故に乾草生産が困難な為に牧草を発酵させたサイレージ調整飼料を牛は主食としている、が近年に成って放牧による多岐に渡るメリットを考慮。2015年以降は放牧を視野に入れた酪農改革が朝霧高原で行われるとかどうとか…、なんて話も。
青い空と生い茂る緑に錆びた赤い鉄が良く映える、やはり廃墟の撮影って夏に限るなぁ。
原住民の半数が先ほど話した分村計画で集団入植した方々(当時15歳から20歳の青年入植者)、自分達で開拓した土地だけに思い入れも大きいと聞きます。その為にこの土地での近年問題に成っている山菜などの不法採取には敏感に成っているのだとか、最後に行政さんと地元の方からのアナウンスを記載してレポートを終わりにしたいと思います。
photograph:+10
![]()
財産区該当地での撮影についてのお願い
入口には看板が掲げてあり「敷地内で樹木、薬草、山菜などの植物、土砂、岩石などの採取する事は民法上の入会権の侵害になります(根原区財産区)」と警告文が書かれていた。廃村を調べていた時に聞いた民法だ、ただ詳しくは知らない。
入会権 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%85%a5%e4%bc%9a%e6%a8%a9
うーんコレはちょっと複雑な法律ですねぇ、実は事前に富士宮市の見解を確認しておいた。
「財産区敷地内における立ち入りは朝霧高原が観光地と言う事もあり全てを制限出来る物ではない、しかし敷地内での植物や鉱物の採取は民法においても共有管理している地元住民の地元感情においても許される物ではない」
しっくり来ないので財産区の関係者に直接ご意見を頂く事にした、以下回答です。
「折角来て頂いたので風景などの写真撮影位は構いません、ただ余り奥の方まで行かれると色々と誤解も招きます。また道路沿いに駐車されるのも財産区へ入る際に地元民が迷惑と成るので控えて頂きたい事の一つです、必ず守って欲しいのは山菜などの採取や伐採などの破壊行動はしないと言う事。しかし不審者がうろついていた場合は通報させて頂きます」
との事。うーん、ケースバイケースに成りそう。
もう一つの注意点を財産区の共有管理の方から頂きました。
この廃墟の付近には行政管理墓地や私営墓地、一見廃墟に見えて倉庫として転用されている建物も在ります。その敷地内に県外ナンバーが停まっていた場合は確認の為にナンバーを控えたり長時間駐車されている場合は警察へ通報するとの事、来訪時はその点もご注意下さい。
アプローチ
朝霧高原を縦断する国道139号線のほぼ中央に位置する、目印は1キロ圏内にある道の駅朝霧高原位だろうか。
地図リンク
http://goo.gl/maps/Vw53d
photograph - nee
![]()

![]()
ここから下はブログ内容と一切関係ないブログサービスの広告スペースです、誤ったクリックなどにご注意下さい














