産経新聞の【花形参上、愛を語る】インタビューが、計5回に渡り、掲載されましたので
Blogで応援してくれている皆様にも見られるよう、
今日は第二回のインタビューを掲載しますね

《花形参上、愛を語る》~第二回~運命の出会い
--歌舞伎は家柄や門閥がものを言う世界です。でも愛之助さんは歌舞伎の家の生まれではないですよね
愛之助 大阪の堺で、祖父は船のプロペラを作っている会社を興し、父が継ぎました。歌舞伎とは関係ない家です。
--ではなぜ、歌舞伎界へ
愛之助 家と工場が同じ敷地内にあってダンプカーの出入りが激しかった。危ないので、幼い頃、僕は妹と家の中でばかり遊んでいたそうです。心配した父が、子供同士の触れ合いのためにと、松竹芸能のタレント養成所に行かせることにしたみたいで、オーディションにたまたま受かりました。
--きっと、かわいかったんでしょう
愛之助 いやいや。でもオーディションに落ちていたら、今の僕はなかった。僕の1つ目の人生の分岐点でした。
--それで歌舞伎の舞台に子役で出るようになった
愛之助 一番初めは、藤山直美さん主演の昭和54(1979)年のNHK銀河テレビ小説「欲しがりません勝つまでは」。その後に歌舞伎の子役をいただきました。まだ見たこともなくて、歌舞伎って何だろうっていう感じでしたが。
昭和55年、大阪・中座の「関西で歌舞伎を育てる会(関西・歌舞伎を愛する会)」の第2回公演で、「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の丁稚(でっち)三太でした。
--そのときはまだ芸名はなく本名での出演だったそうですね
愛之助 ええ。ところが子役といえども、歌舞伎はひと月興行ですから、1カ月は学校を休まないといけない。しばらく続けていると勉強に支障が出てきました。別に役者になろうと思って入った世界ではなかったので、親と話し合って、やめさせていただくことにしたんです。
--それなのに、なぜ
愛之助 ある朝、楽屋にあいさつに回ったとき、後に父となる(片岡)秀太郎に、「お芝居好きか」と声をかけていただいた。
「今月、終わったらうちに遊びにおいで」と言われ、当時の豊中のご自宅に両親と伺ったら、「この子、役者にしないんですか」と。
実家の父は好きで会社を継いだわけではなかったので、僕には好きなことをさせたかったみたいでした。「やりたかったらやりなさい」と。
--秀太郎さんに、どうして愛之助さんに声をかけたのかとお聞きしたら、「品のいい子で、雨の日も風の日もお稽古を休まなかったから」とおっしゃってましたよ
愛之助 歌舞伎、好きだったんです。なんでこの人、顔が真っ白なんだろうとか、楽屋入りしたとき男の人なのに化粧して衣装をつけると、きれいな女性になるのも不思議でしたね。歌舞伎の世界ってテーマパークみたいだと思いました。子供が素直にきれい、おもしろいと思うということは、歌舞伎にはそういう力があるということ。でも当時は一生の仕事になると思わなかったのですが。
--秀太郎さんとの出会いが2つ目の分岐点に
愛之助 本当はその月で仕事をやめるはずだったのですからね。運命の出会いです。 =第三回へ続く
産経新聞 インタビューページより
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