相撲ネタです。
「イマダ モッケイタリエズ フタバ」
双葉山さんと言えば木鶏。
私は、69連勝後に双葉山さんは完全に木鶏になったと思っています。
その双葉山さんにも、木鶏でない時代がありました。
双葉山自叙傳(昭和14年5月26日印刷納本)に出ています。
それは、昭和9年の5月場所の前頭筆頭で6勝5敗でやっと星を残すことができた時の話しです。
当時ライバルで、三役昇進を先に越された大邸山関との千秋楽の一戦のコメントが書いてあります。
原文のママ「6勝5敗でやっと星を残しまして、いよいよ来場所は三役突入を約束されたのでありますが、千秋楽に大邸山関を破りました喜びは、私にとりまして忘れがたい感激の一つであったと云いませう。‥‥(中略)‥‥私にとりましては負けられない貴重な一戦であります。その上に相手はなんと云っても大邸山、どうしてこれが負けられませう。私は運命の皮肉を見ますと共に、より一層身内に勝たずば已まずの烈々たる闘争心を露骨に感じ、熱い血潮の沸き立つ思いでありましたが、幸いにも勝ちますことができて、ここに先ず三役獲得の野望を達したわけです。」
と、書いてあります。
まだ、木鶏にはなっておりません。
当時、双葉山が師事していた陽明学者の安岡正篤氏に会っていたのかはわかりませんが(調査中)、木鶏の心で無かったのは確かと言えます。
双葉山さんは、稽古で、挫折(連勝ストップ)を経験することで木鶏となっていきました。
挫折やストレスは悪いことではないんですね、むしろ必要なことかもしれません。
以下、木鶏に関するお話しです、木鶏をご存じない方はご参考にして下さい。
(内藤流の解釈です)
木鶏(もっけい)とは、中国春秋戦国時代の思想家、荘周の記録「荘士」寓話の一つと言われています。
ある闘鶏訓練士(昔起渻子)が王様から一羽の鶏の訓練を仰せつかりました‥‥
十日程経って王より「そろそろ使えるか」の問いに訓練士は‥‥
『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』と答えました。
そして、十日ほど経過して再度王が訪ねると訓練士は‥‥
『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』と答えました。
さらに十日後、訓練士は‥‥
『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と。
その後、十日経過して王が質問すると訓練士は
『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、騒ぐことも、同ずることもなく全く相手にしません
。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えました。
本当に強い闘鶏は、まるで木で作られた置物のように、何があろうと、どのような状況であろうと心は乱れません。また、戦う相手も闘志を感じることがないので戦わないことになります。かりに戦わなくてはいけない状況では相手は“闘志を感じない”ので戦いにくくなります。(不安を感じる。例えば、音のストレスのない部屋、無音室に入ると不安に感じます。)
いいかえると何事にも動じない「不動のこころ」と言えます。
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