蛭子伝説[編集]
時子の死に関しては以下のような伝説が、足利氏の本領足利庄の存在した栃木県に伝承されている。
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- 夫の義兼が、時子を足利庄に置いて鎌倉に出府していた間のことである。時子が野外にて、井戸から侍女の藤野の汲んできた生水を飲んだところ、しばらくして時子の腹が膨れて妊娠したような有様になった。これを藤野が義兼に、時子が足利忠綱と不義密通して子を孕んだと告げたため、義兼は時子を疑うようになり、時子は「死後わが身体をあらためよ」と遺言して、建久7年に自害した。
時子の墓である「蛭子塚」がある法玄寺では、昭和に入ってからの工事で鎌倉時代推定の五輪の塔が発掘されており、「お蛭子さま」と称されて足利市重要文化財に指定を受け、伝承には事実が含まれているとする他[4]、義兼建立の鑁阿寺にも蛭子伝説は「蛭子堂(智願寺殿御霊屋)」「開かずの井戸」となって伝承とされ安産の神として信仰を集め、足利市指定有形文化財になっている[6]。
伝承では幾つかの変種や相違点も見られ、藤野が義兼に虚偽を告げた理由を足利忠綱との情の縺れからくる腹いせとするものや、藤野を侍女ではなく義兼の側妻とするものもある[4][7]。
法玄寺内の「蛭子塚」案内版や鑁阿寺の「蛭子堂」看板では、藤野が時子の不義の相手として名指しした人物を藤姓足利氏の足利又太郎忠綱とし、不義密通という虚言に惑わされ怒った義兼から遁走したが追い詰められ自害、または斬殺されたとして、「逆藤天満宮」(足利市)の「逆さ藤天神」の伝承とも絡められている[5]。