このところ、身体だけでなく、こころのほうも疲れてしまっていた。

心臓等の病気を持っていると不安や恐れから<こころ>も参ってしまうと色々な本に書かれていた。

一日を過ごすことが、いかに大変なことか最近になって痛感している。


スポーツジムに通い始めて少しずつ体調がよくなると思うこともあるけれど、

荷物を持ったり、階段を上るだけで息が切れてしまうことがある。

胸を押さえて少し休むことになる。


先日ドクターからも言われた。

「スポーツジムに通うことはとてもいいことですね。

ただし一定の運動を超えてしまった場合、倒れてしまう危険があることは絶対に忘れないように。」

難しいことだな。

ある程度の運動を超えると不整脈が出ることは体験している。

しかし倒れると言われると重い言葉となる。


先日、知人が急性心不全で亡くなった。

とてもショックだった。言葉でいい表すこともできないほどに。


わたしの心房細動が治らない病気だということも知った。

心房細動はふつうの状態より血流量が2.3割少ないらしい。

それだけ心臓が弱いということだ。


他に大腸憩室炎も治ることはないようだ。

最近は突然腹痛が襲ってきて、対処のしようがないことに頭を抱えている。

気がめいるというより、重いこころの状態になっていく。


痛みや苦しみを我慢してきたけれど、これからも生涯付き合っていかなければならない。

それはわたしの宿命かもしれない。

どこかで「もういいんじゃないか」「もう楽になりたい」という囁きが聴こえてくることがある。



この辛さから解放されたいという願いは誰でも強くあるものだ。

ただ、永遠にということになると複雑になる。

わたしが銀河鉄道に乗るのか。それとも星になるのか。


ほんとうにもう治らないのか。

倒れることはないのか。

脳梗塞で倒れないようにする薬を毎日飲んでいる。

いつ倒れるかわからない不安も想像以上に大きいのだろう。


薬の副作用も大きい。

出血しやすい。すぐに血が流れてくる。

このリアリティは心臓に負担をかけるほどだ。


やけになるわけではないが、次第に<こころ>に負担がかかってきたんだと思う。

「もういいよね。」もうひとりわたしの声が聴こえる。

なんと答えてきたのか。

「もう少しやっていかなければならないんだよ」とわたしは言ってきたのか。

「だって見ていてあまりにも苦しそうだよ。途方に暮れないかい。結局人間はひとりじゃないのかい」

彼の囁きが間違っているともいえない。

しかし肯定することもできない。


わたしはなんのために今まで生きてきたのか。

いまどうしたいのか。

これからどう生きたいのか。


それが明確のようで、実ははっきりしていないのかもしれない。

どんなことがあっても生き続けたいという強いこころがあるのか。

こころはどこまで持ちこたえられるのだろう。

よくわからない。



今日、どうにもならないようにこころががんじがらめになっているときに、

東京の友人からの贈り物が届いた。


袋を開けてみると松岡正剛の「切ない言葉」の本だ。

ページを捲ると、正剛のサインが書かれていた。



$絶対への接吻あるいは妖精の距離



言葉を失っていた。

あれほど憧れている正剛に、わたしが一度も逢っていないことを友人は知っていた。

北海道には新幹線もない。高速道路も一部しかない。

東京へ行くにも経費と時間は負担が大きいものだ。

いまとなっては、体調に問題がある。


友人は、彼の講演会へ行って頼み込んでサインをもらったらしい。


その話を聞いて涙が止まらなかった。

彼はわたしを元気づけようとしてくれたんだとた思う。

わたしの生きる気力が弱くなっていたことに気がついていたのかもしれない。


できれば松岡正剛に直接会いに行きたい。


「きみがわたしに松岡正剛の素晴らしさを教えてくれたお礼だよ」と言っていた。

先日も正剛は、「嵐」のテレビ番組にも出演していたから、こんなにうれしいことはない。



そして5月9日まで東京国立新美術館でシュルレアリスム展が開催されている。

アンドレ・ブルトンの書斎についての展示があるという情報もある。

行けるようになりたい。



希望を失いかけていたわたしに、生きていてもいいことはあるんだな。

あらためて生き続ける目標を持っていこうと感じていた



涙にもいろんな意味がある。

さきのことはよくわからない。


いつかは、倒れるのだろう。

それは心臓か、脳梗塞か、腸か、それとも。


でも、もう少しやっていこう。

いけるだけ、歩けるだけ歩いてみよう。