新聞で函館の「香雪園」の紅葉がライトアップされるという記事があった。

場所をすっかり忘れていた。


「香雪園」は明治時代に作られた個人の日本庭園で、後に市に寄贈された。

郊外にあって、普段はひとは少ない。


紅葉は過ぎてしまうかもしれないと思って、出かけてみた。

初雪は11月中旬だろうから。

秋はわずかしか残されていない。


市内でも落ち葉が増えている。

ここ数日はあわててコートを着始めた。

日差しも弱くなってきた。

冬の用意はできるだけしたくないけれど、少しずつはじめている。


そういえば、いままで日本の文化の理屈ばかり考えてきた。

これからは、知識は当然として、文化をじぶんが感じ取れるかどうかということだ。

感じたいということだ。

そんなふうに思いはじめていた。



公園の中に庭園がある。庭園への入り口。
歩いていると、とてもロマンチックだ。
ここはパリといっても間違いではないかな。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離


ひとつひとつの葉の色が見事だね。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離


庭園に近づいてきた。
大きな木はみんな宇宙へ向かっている。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離


歩いてみると、一番美しいのは一週間後あたりだろうか。


様々な命がおのれの美しさを静かにあらわしているようが気がしてくる。


数寄屋風書院の園亭のしんとした雰囲気は興奮すら覚えてくる。


ここにある池はいくつもの表情を見せてくれる水の魅力を十分に教えてくれる。

池の石に苔がついている。



園亭の入り口。
ここをくぐると別の世界だということだろう。
能でいう世阿弥の「形から入って形から出る」精神を感じる。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離



池に周囲の木々が映って見える。
借景かもしれない。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離



水は全てを反映する。
鏡のようで魔法のように美しい。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離



かえでやもみじと水。
日本の文化にとって水ほど大切なものはない。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離



その奥に何か見えそうだ。

苔の集まりにこそ、真の美があることなのか。

水はそれだけでなく、落ち葉と溶け合っているからこそ美しい。


$絶対への接吻あるいは妖精の距離



もみじのの赤をなぜ美しいと思うのだろう。

ささやかに、光り輝いているようだ。

生命の輝きそのものなのか。


$絶対への接吻あるいは妖精の距離



さやさやと、「これが秋なんですよ」というささやきが聞こえてくる。


「わたしたちを感じにきたんですね。

触れにきてくれたんですね。

今が一番愛でてほしいとき。

うれしい。」


たおやかな風のない庭の周りのもみじたちは、話していた。


$絶対への接吻あるいは妖精の距離



わたしは呟いていたのだろう。


「ありがとう。

あなたたちがわたしたちのこころを繊細にさせてくれた。

ためいきが出るほど美しいものはそこにあることを教えてくれた。

あなたたちがわたしたちの文化を創ってくれたようなものだよ。」


「いいえ、わたしたちはそんな難しいことはわかりません。

ただ、わたしたちのほんとうの姿を見てほしいだけなのです。

それで喜んでもらえれば、それで十分なのです。


これからわたしたちは落ち葉になります。

そして土のなかに溶け込んでいき、来年また蘇るのです。

これからのことをよろしくお願いいたします。

再生できますように。」


$絶対への接吻あるいは妖精の距離



一瞬のことなのか。

植物や苔の精霊たちは、永遠の営みを話してくれた。


もっとこの文化を愛せるようになりたい。

未知の魅力に溢れているから。



「見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋のゆふぐれ」 藤原 定家



目の前には、花ももみじもないのに、それが秋の景色を想像させる定家の傑作。


侘び・寂び・茶・水墨画・枯山水等の日本の伝統文化について考え続けてきた。

日本人の自然観というものもある。

いつか、日本文化の魅力について書いてみたい。



そんな美しい庭がじぶんの近くにあった。

真剣に見ようと思えば、ほんとうに大切なものは見えてくるものかもしれない。