その後の渋田利右衛門と勝海舟の交流はどうだったのか。

海舟は利右衛門から大量の紙をもらっている。

当時は安いものではなかっただろう。

海舟は死ぬまでその紙を使いきれなかったという話がある。

書物代も渡し続けたようだ。


勝は神戸に海軍大学を創立させたいと活動していたが、利右衛門から資金の援助をしてもらっている。

利右衛門は全国にネットワークを持っていたと前回書いているが、いざという未来のために

3人の人物を紹介している。

紹介するときの言葉が泣かせる。

「万が一、わたしが死んであなたの頼りになるひとがいなくなっては」と言っている。

これほどの言葉があるだろうか。

灘の嘉納治右衛門。紀州の浜口梧陵、伊勢の竹川竹斎。

いずれも相当な経済力があり、人物と言われていたひとたちだ。


これらのひとたちと普段から付き合って、日本や海外のことを語り合っていたのではないか。

この3人も利右衛門同様、海舟に相当な資金援助をしている。


忘れていけないのは、海舟は幕府の人間でありながら開国論者だった。

これは幕府からも尊王攘夷の志士からも敵扱いされる。

そのためとても神経を使いながら生き抜いて、結局自らの思想を貫いて勝利へ導いている。

当然何度も失脚している。

20回も刺客に襲われている。


生き続けることができた奇跡の人物と言っていい。

しかし単純な奇跡ではなく日ごろの相当な鍛錬の結果だったことは「氷川清話」に書いてある。

刀を抜かずにいかに相手にその気を無くさせるか。

その一瞬の気迫に多くのひとたちが戦意を喪失させている。

剣の達人としても龍馬をしのいでいる。


利右衛門は商人だった。

函館で外国人と会話し、様々な情報を得ていた。

幕府の旧態以前の考え方では日本が危ない。

しかし外国と戦えばという思想にはならなかった。

おそらく外国と商売をできる道も見出したかったのではないだろうか。

彼は海の向こう側に、じぶんの知らない多くの魅力的なものがあることを知っていた。

フランス革命の思想も知っていただろう。


海舟はアメリカに渡った。

高杉晋作は上海へ行く。

吉田松陰はアメリカへ行こうとするが、失敗に終る。

龍馬はフランス革命の思想を見につけていた。

アメリカには士農工商という身分制度がないことを知っていた。

それを教えたのは海舟でもあった。

龍馬は維新が達成できたら、世界中の国と貿易をしようとしていたのではないか。



未知のものをどう捉えるのか。

それはそのひとの感性や洞察力にもよる。


利右衛門は海舟たちに外国と交易ができるような環境も作って欲しかったのかもしれない。


わたしは図書館に数ヶ月通っていた。

結果としてあまり資料を見つけることができなかった。

しかし貴重な経験をした。

ひとりの人間をどうしたら知ることができるのか。


当時の函館市内の地図を探して彼の住所を見つけ、その場所へ行ったこともあった。

彼は夜間学校も作ったが、以外にもそれはわたしが通った小学校と繋がりがあったようだ。


一番驚いたことは彼はその後「図書館の祖」と呼ばれるようになった。

その図書館でわたしは彼を探していたことになる。


電子図書館をいま松岡正剛が作っているところだ。

アレキサンドリア発祥の図書館から歴史は新しい状況を迎えようとしている。


彼は安政5年に亡くなっている。

それはまだ松下村塾で軍事訓練をしていた幕末の初期でなかったのか。

わたしは彼に維新回天を見て欲しかったと思う。


肺の病気で42歳で亡くなるのは無念ではなかったのか。

早すぎたのではないか。

何度も海舟と日本の未来について語り合ったのではないか。

国民の幸福を願い続けたのではないか。

ずっとそんな思いがあった。


しかしわたしは海舟のこの言葉で救われた。

「おれがいよいよ長崎へ修行にいくことになると、渋田は非常に喜んで

「これでこそわたしの平生の望みも達したというものだ。」」と。


「おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはこれに報いるだけのことはしようと

思っていたのに、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。

こんな残念なことは生まれてからまだなかったよ。」


海舟にとって彼が生涯の恩人であったことを証明することがある。

「ご一新後におれたちは函館奉行に話して、渋田の遺書を一切奉行所で買い上げて、

その子孫には帯刀を許すようにしてやった。」


わたしは彼の写真を探し回った。

しかしとうとう見つけることができなかった。


多くの資料は明治12年の函館大火で多くの資料が焼失してしまったらしい。

万巻の書も消えてしまった。

子孫は秋田と関係があるらしいという説もあるが不明だ。


函館市民にも彼はほとんど知られていなかった。

勝海舟に維新回天の一大事業を成し遂げる基盤を作ってくれたひと。

函館の教育の先駆者。

図書館の祖。

わたしはこころから尊敬していた。


彼の墓へ行って、言葉にできない会話をしたいと思っていた。

近くにいても墓参りはなかなかできないものだ。


数年後にようやくわたしは彼に会いに行った。

函館の高龍寺という大きくて歴史がある寺だった。


墓地の中を歩き回ったが、迷路のようになっていて全く検討がつかない。

何か目立つものがあるはずだ。

彼ほどの偉大な人物だから。

しかしわからない。

残念ながら寺に戻って、場所を聞く。

なんとなく目星がついた。



ほんとうに目立たない標識があった。

$絶対への接吻あるいは妖精の距離



見た瞬間、感極まっていた。

しばらく呆然と佇んでいた。

墓になんと書いてあるのかよく読めない。

全国から彼に会いに来るひとはいるのだろうが。


$絶対への接吻あるいは妖精の距離


わたしはこころのなかで呟いていた。

彼を見ながら。

「利右衛門さん。ようやくあなたにお会いすることができました。

氷川清話であなたのことを知ってどれくらいたったでしょう。

あなたのことを知りたくて随分調べたつもりでした。

でもあなたのことについて殆ど知ることができませんでした。

わたしの努力が足りませんでした。

そして地元の人間でありながらここに来ることもできませんでした。

でもわたしはあなたの人間としての偉さを知っているつもりです。

函館市民としても、あなたに感謝しています。

あなたが歴史を大きく変えてくれたひとであることも。


あなたのことをいつかなんらかの形で書かせていただきます。

それがわたしの使命です。

あなたに誓います。」そう話していた。



日が落ち始めていた。

どれくらいここにいたのか。


あれから随分時間がたった。

ここで書くことで、約束を果たすことができました。



彼は「氷川清話」で生き続けるだろう。


深い愛のひと。

渋田利右衛門の精神は永遠に輝きつづけるだろう。


今も全国の図書館で学ぶ英知のひとたちが沢山いる。

それが彼に続くひとたちだ。



ありがとう。

渋田利右衛門さん。