ほんとうは、まだ書ける状態でないのかもしれない。
時系列で入院のことについて書こうと思っていたけれど、
この出来事が、記憶から溶けてきていることを感じていたので、書いておく必要があると考えた。
8月25日に手術をして、ICUに一泊し、8月26日の午後に、外科病棟に戻った。
「そして、この夜と、次の日の日中から夜にかけて、不可思議な体験をすることになる。
これほど恐ろしい経験はなかったが、深い意味を感じていた。
今回の体験の意味は、どのようなものなのかを考え続けている。
あれは、わたしにとてつもない大きなショックを与えた。」このことだ。
この体験によって、わたしのこころなかに、<大きな変容>が起きたと感じている。
外科病棟に戻ったといっても、ベッドの周りには、点滴が10個以上あった。
鼻から胃までチューブが通っている。目は少し開くが、高熱があり、意識も鮮明とはいえなかった。
まわりのひとを認識することは出来た。手足も少しだけ動くことができる。
しかし、ベッドの周りはカーテンで遮られていて、
同じ病室の患者がどういうひとなのか、声しかわからない。
外が見えない。病院の窓から外を見る事ができたのは、入院して7日目あたりだった。
この夜のことだ。起きているのか、眠っているのかよく分からない。
沢山の薬のなかには、睡眠作用のあるものもあったと思う。
★ある世界が見えてきた。それは異常と思えるほど、濃い色彩の空間なのだ。
グロテスクとしかいいようがない。鮮明で目に突き刺さってくるほどの強い色の数々。
映画「デス・ノート」のように、ドロドロとした暗い空がうごめいている。
登場人物はわたしが知っているひとたちばかり、それも人物像を明確に感じる。
彼らは、カルト集団のようだ。彼らはそのことを気づかれないようにしている。
もう一方のひとたちは、マインド・コントロールされていて、
病室の窓の入口から集団の施設へ向かって歩いていく。
わたしはそこへ行ってはいけないと思い、止めようとする。
しかし、なんの行動もとれない。
悔しい思いをしているが、カルト集団のメンバーは、微笑んでいる。
★第2の物語。これは27日に体験したものだ。
わたしは、病室のベッドにいる。声を感じる。それは、声だけの存在のようだ。
声はわたしに語りかけてくる。
「君は今どこにいるのかわかっているのか。」「ここは、病室だよ」
「はは!。今君のいる世界は現実かね。それとも?」「それとも?」
「教えてあげたほうがいいようだね、気がついたほうが、君のためにはいいと思うから」
彼の言葉に悪意は感じない。
「君は、もうひとつの世界に存在しているんだよ」「もうひとつ?」
「残念だが、君がいた世界はここじゃない。どうも理解が出来ないようだね。
仕方がない。君がいた世界を見せてあげよう。」
「そんなばかな!。君が今見せてくれた世界には、わたしはいないじゃないか?」
「そのとおり、もし確認したかったら、そうさせてあげよう。」
「なにを言っているんだ。わたしはここにいるじゃないか。」
「だから言っているだろう。ここは、君が存在しているようで、存在していない世界なんだよ。
信じられないだろう、それじゃあ。君がいた世界に戻してあげよう。」
「行ってきたよ、こことあそこはなにも変わりないじゃないか。」
「ははん、君は気づかなかったのかね。君は、あそこの世界のひとたちと会話をしたのかな。
彼らは君を認識していたのかね。彼らと、触れ合うことが出来たのかね。」
「わたしは、彼らと会話が出来ていた。触れ合うことも・・」
「よく思い出してご覧。君はほんとうに、彼らに触ったのかね。
双方向のコミュニケーションが出来たのかね。」
「そういわれれば・・」
「残念だが、実は、君はもう既に死んでいるんだ。そのことを認める必要があるんだよ。
わたしはそのことを、君に伝えに来たんだ。」
「そうか、わたしは死んでいるのか・・。なんてことだ。」
物語はここで終っている。目が覚めた。
わたしは、愕然としていた。
こんなにショッキングで恐ろしい感覚は今まで、味わったことがなかった。
わたしが既に死んでいる感覚が、あまりにリアルだったから。
振り返ると映画「シックス・センス」テレビドラマ「雨と夢の後に」と同様の物語だ。
第1の物語は、わたしが身動きが出来ないことから生まれたものかもしれない。
周りが見えない視野狭窄も関係しているようだ。周りが見えない不安が関係しているのか。
これも最近の映画に関係があるのかもしれない。
共通しているのは、これは夢ではないと明確に感じていること。
目を閉じると、まるで一時停止したDVDのように映像が始まる。目を覚ますと映像が止まる。
眠りに入ると続きの映像が流れる。
夢ではこんなことはない。映像に物凄くリアリティを感じている。
物語が詳細なシナリオで作られている。これは現実なのか夢なのか判然としない。
それでは白昼夢か?。わたしは、あのとき間違いなく死んでいると思った。
臨死体験でも、幽体離脱でもない。これは<幻覚>か?。幻視・幻聴か。
確かに、あのときは、意識が混乱していた。
意識・無意識・こころ・心理学・脳生理学等を通して<こころとは何か>を考え続けてきたが、
これは夢というより、幻覚ではないかと考えるようになっていた。
ある本が頭に浮かんだ。
自宅に戻ると、真っ先に書斎へ行った。岩井寛と松岡正剛の共著「生と死の境界線」。
この本は、精神医学の教授だった岩井さんが、じぶんがガンであることがわかってから、
死までのプロセスを松岡正剛に口述筆記を頼んで、一冊の本にまとめたものだ。
想像を絶する本とは、このことを言うのだろう。
絶版になっているはずだ。正剛は再販をしないだろう。壮絶すぎる。死の深遠を感じるからか。
ページを捲る。あった。
教授は、ガンの手術後に幻覚を見ている。
また松岡正剛は別の著書で、わたしと同じく、胆嚢摘出の手術をしていることもわかった。
2か月半も入院していたそうだ。
そして、正剛は胃がんの手術後に幻覚を見ている。見えてくるものは、個人差があるようだ。
ビジョンとして見えてきたり、夢のように感じるものもあるだろう。
わたしは、幻覚の大きな要因は、全身麻酔からくるものではないかと感じている。調査を続けたい。
この体験のあとの、わたしのこころの大きな変容。
これはなんなのか?。価値観の変化か?。その実態は、まだ言葉にならない。
いずれ何かが見えてくるだろう。
幻覚を見る前とあとでは、わたしのこころは違うものが芽生えている。
あらたな何かを感じていることだけは確かだ。
<わたしのこころのなかと世界に愛があると思えれば、わたしが生きている価値はあるだろう。>
セイゴウ