映画「海の上のピアニスト」を観た。
「オペラ座の怪人」で、
ズレ落ちるシャンデリアの軌跡に
既視感がよぎり、
『マジックワルツ』とともに、
不意に立ち上がったのがこの作品で、
遊園地に紛れ込んだかのような
あのワルツが流れるなか、
転がっていくピアノに身を預け、
大の男二人が
遊ばされている気配すらある、
あのシーンを筆頭に、
1900(ナインティーン・ハンドレッド)
が北斗百裂拳さながらにとどめを刺す、
あのピアノバトル、
今にも鼻をほじり出しかねない、
あの娘との出会い、
そして、
天才が、ただの変態に見えてくる、
あの三等女性船室という、
見どころがあるのはもちろん、
“タランテラをやれ!”の一声で、
「ゴッドファーザー」の
フランクの面影が浮かび、
内省的でありながら
ふと粗さが滲むマックスの語り口は、
「スタンド・バイ・ミー」の
ゴーディを思わせ、
アンドレ・リュウめいた指揮者が
場を支配するパーティ会場は、
どこか“オーバールック・ホテル”の
舞踏会に触れていて、
右腕を掴まれ、
暴走を制止される1900の姿が、
あの集合写真の中に紛れ込んで
いるかのような錯覚まで生まれ、
そして、あの“降りた男”を描いた
監督である以上、
今度は“降りなかった男の物語”
という気配が漂うなかで、
ダニーが1900を拾い上げる場面では、
“この広場はオレのものだ!”
と叫んだ、あの男の姿までが重なり、
まるでアトラクションを
渡り歩くように、
他の映画の断片が次々と浮かび、
その往復そのものが、
いつのまにか
もうひとつの楽しみになっていて、
そして、その連なりのなかでも、
同じ大西洋を渡り、
同じように三等の熱気と音楽を抱え、
同じように機関室の鼓動で動き、
同じように
ひとりの女性との出会いに揺れ、
同じように船の中で人生が交差し、
同じように
挨拶のイメトレに思いを巡らせる⸻
さらに、
“アメーリカー!”
と最初に叫ぶ男は、
どこかファブリッツィオを彷彿とさせ、
自由の女神を見上げるその視線が、
“碧洋のハート”を握りしめた
ローズへと繋がる、
「タイタニック」の像は濃く、
もはや、断片とは言い難いほどの
輪郭を伴って、
本作に立ち上がっていて、
豪華客船の決定版とも言える
ビジュアルと、
沈没という強烈なカタルシス、
さらには世界的な成功までをも
先に掴み取ってしまった、
「タイタニック」の直後では、
リアルな再現には向かわず、
むしろ舞台のような抽象性へと傾き、
さらには“存在そのものが曖昧な男”
を据えることで、
現実のスケールとは別の次元に
物語を置こうとしたという、
そんな、同じ時代に同じ題材を
扱うことになった作り手の、
距離の取り方の奥にあるものまで
想像せずにはいられず、
結果として、
これだけの類似を抱えながら、
比較に回収されるどころか、
実話である「タイタニック」へと
引き摺り込まれていくように、
この作品まで現実の出来事の
手触りを帯びながら、
別のかたちで
記憶の中に残り続けていて、
それを偶然のままに見せているあたり、
トルナトーレの舵取りの確かさが、
逆に滲み出ているようにも感じたが、
その確かさとは対照的に、
私の目は一体どこを見ていたのかと
思うほどで、
航路の途中、
あの“叫び声”の話で
1900に揺さぶりを与えた、
アコーディオンの男と、
窓越しに現れるあの娘とが
父娘であったことを、
今になって知り、
「ニュー・シネマ・パラダイス」の
劇場版と完全版ほどの隔たりを、
平然と見過ごしていたことに気づいて、
我ながら呆れるほかなかった。
ジェリー役の
クラレンス・ウィリアムズ3世が、
あのがたいにサングラス姿で現れると、
一瞬、ローレンス・フィッシュバーン
のようにも見えるが、
その印象は、どこか宙に浮いたままで、
1900を演じたティム・ロスもまた、
物語を牽引するというよりは、
その中へ溶け込む側に回り、
マックス役の
プルイット・テイラー・ヴィンスは、
“揺れ”を孕んだ演技で
強烈な個性を放ちながらも、
観客を引っ張るスター性とは
どこか距離があり、
1900の初恋の相手を演じた
メラニー・ティエリーに至っては、
この作品が最初の顔で、
そうして並べてみると、
どこか“決定的な顔”が不在のまま
進んでいくようでもあって、
それがかえって、
物語を現実からわずかに切り離し、
寓話めいたものへと
押し上げているようにも見えるが、
その曖昧さの中で浮かび上がるのが、
ひとつの考察としての、
“1900は、本当にあの船を
降りなかったのか?”という疑いで、
確かにスクリーン上では、
ラスト、マックスは爆破寸前の船で
1900と再会するが、
あの再会は、
マックスが自分の中で導き出した
“答え”だったのではないだろうか。
マックスは、
おそらく自分が去った
あの下船の場面を最後に、
1900と再び会っていない。
そう考えると、爆破直前の“再会”は
事実ではなく、
彼の中で組み上げられた
対話と見る方が自然で、
1900がタキシード姿で
タイミングよく現れ、
饒舌で、あまりにも噛み合いすぎる会話をし、
そして何より、
その言葉がマックスの疑問に対して
過不足なく“答え”になっていることは、
本来の1900の在り方とは
どこか食い違っていて、
多くを語らず、感覚で応じ、
時には一言で切り捨ててしまうような
人物のはずが、
あの場面ではまるで、
誰かを納得させるために
用意された言葉のように響き、
“右腕が二本ある”というジョークすら
口にしてしまうあたりが、
かえって不自然にも見えて、
親友を船に残して降りたこと、
その後の彼の人生を
知らないままでいることが、
いまだ後悔としてマックスに残り、
そして、コーンを売ってしまった
という事実が、
自分自身もうまくいっていない現実を
滲ませるなかで、
本当の分岐点は、爆破の直前ではなく、
あの下船の瞬間にあったはずで、
それゆえに彼は、
そこをやり直すことができないまま、
別のかたちで折り合いをつけようとし、
その果てに語られるのが、
マックス自身の後悔と、
自己弁護とが折り重なることで
立ち上がってきた、
“1900は最後まで船に残り続けた”
という物語だったのかもしれない。
エンドクレジットで流れる
『Lost Boys Calling』の、
“And in Mott street in July
When I hear those seabirds cry
I hold the child
The child in the man
The child that we leave behind”
という一節は、
“モットストリート”という
具体的な地名に、
海鳥の声というイメージが
重なることで、
あの“海の叫び声”を
どこか思い起こさせ、
1900が実際に船を降り、
その場所で新たな人生を
歩んでいるかのような、
もうひとつの可能性すら滲ませていて、
マックスが約束の場所で彼と出会い、
その腕の中にある“子供”を抱く、
そんな光景すら、
どこかで用意されているようにも思え、
さらに、
かつて自分の人生がそこにあった船を、
どこか懐かしむように
こちらから眺めている、
あの広く知られた
1900の後ろ姿のポスターは、
“やはり彼は降りたのだ”と、
どこかで囁いているようにも見えるが、
その像もまた、
体格や首元の太さに目を凝らせば、
むしろ1900ではなく、
マックスの後ろ姿として
立ち現れてくるようにも見えて、
そう考えると、この物語は、
1900という人物そのものではなく、
マックスが見ていた1900、
あるいは彼の内側で形作られていった、
ひとつの像を語っていたに過ぎない
という気配すら帯びてきて、
再会の場面がそうであったように、
あの言葉も、あの光景も、
彼の内側で立ち上がったものだと
すれば、
エンドクレジットに流れる歌詞や、
あのポスターに至るまで、
すべてがどこかで、
“語り手であるマックス”へと、
回収されていく構造になっている
ようにも思え、
“1900の伝説”を語ることで
自らの人生をつなぎ直そうとした、
マックスの物語とでも
呼べてしまいそうで、
1900のものとも、
あるいは、それを語る
マックス自身のものとも思われる、
“面白い話を聞いてくれる相手がいる間は、
人生捨てたもんじゃない”
という言葉が、
そのすべてを、静かに受け止めて
いるようにも思えた。
