TO NI LAND 

 

 

映画「ゼロの未来」を観た。

 

 

 

 

 

 

 

前記事に於いて、


“最初の顔”という言葉のみで、

 

メラニー・ティエリーを

語ってしまったことへの、

 

 

小さな後ろめたさもあって

手に取ることになったのが本作で、

 

 

「海の上のピアニスト」では、

 

 “掴めそうで掴めない存在”に

留まっていた彼女が、

 

本作のベインズリー役で見せる

振れ幅は、 

 

 

『粉雪』のMVで見慣れた

宮光真理子が、 

 

「妖怪奇談」で放った

あの異様さに近く、

 

 

首が伸びるような芸当こそ

見せないものの、

 

 

ナースに、ボンデージ、水着の

コスプレ三昧で、

姿を変えるたびに
布面積が削られていき、

 

 

ついには何も纏わないところまで

踏み込んでくるなんぞと、

 

 

1900(ナインティーン・ハンドレッド)

の前に現れた、

 

あの娘と同一人物とは思えず、



嬉しいやら驚くやら

少しばかり混乱するが、

 

 

あの娘にしろ、ベインズリーにしろ

外部から現れる存在で、

 

 

閉じた世界に

“別の可能性”を持ち込み、

 

 

その強度はまるで別物でありながら、
 

主人公にキスを残していく

その振る舞いも含めて、
 

 

どこか同じ輪郭が

浮かび上がってくるのが、 

 

別の像でありながら、

 

同じ座標に引き寄せられている

かのようで、

 

 

さらに、
 

コーエンにしろ1900にしろ、

 

いずれも閉じた世界に身を置く存在であり、



外へと開かれる可能性を前にしながらも、
 

どこか、そこから離れきれずにいる

キャラクターで、

 

 

そのうえ、

 

コーエン役のクリストフ・ヴァルツ、

 

1900役のティム・ロスはいずれも、


タランティーノ作品には

欠かせない俳優であり、

 

身体よりも言葉で場を支配するタイプで、

 

 

その顔立ちもまた、

 

どちらへでも転びうる余白を

残しているあたりが、

 

どこか重なって見え、

 

 

スキンヘッドのティム・ロスが

コーエン役に置かれていても、

 

そのまま違和感なく

馴染んでしまいそうで、

 

 

となれば、この物語は、


1900が船を降り、

ピアニストからプログラマーへと
身の置きどころを変えた先で、


不意に立ち上がってしまった、


もうひとつの可能性のようにも

見えてきて、
 

 

海で子供のようにはしゃぐ
コーエンの姿は、


“人生は無限だ”と囁く気配を、


どこかで拾い上げてしまった昂りが、

 

ふと滲み出しているようでもあり、

 

 

浜辺でベインズリーとじゃれ合う

その光景は、


『愛を奏でて』の
あの甘いピアノソロを、

呼び寄せてしまいそうな
気配すら帯びているが、

 

 

こんな妄想に身を任せて、
 

物語を眺めていられる余地は
わずかながらあるものの、

 

 

この映画は、

意味を追わせてやまない本線を
内側に走らせていて、


にもかかわらず、

“意味らしきもの”は輪郭だけを漂わせ、


ついに手応えには至らないまま、

妙な感触だけが残り、

 

 

この掴めなさを、
 

コーエンの職業に重ねた、

 

“エンティティ分析”的な見方で

なぞってみるなら、


 

目にしているものは、


いずれも確かな“器”として
そこに在りながら、

 

その内側にあるはずのものが、

“実体(エンティティ)”として
成立しているのか、

あるいは、

そう見えているだけの
“非実体(ノンエンティティ)”なのか、

 

見極めようとするたびに、

 

手応えだけが、
 

こちらの中でぼやけていくような

感覚に近く、

 

 

その感覚を、

 

さらに非エンティティの側へと引き寄せ、


“ゼロ”というテーマに重ねてみるなら、

 

 

“ゼロに触れたと思った瞬間、
 

それはもはやゼロではなくなり、
 

何もないはずの場所に、

 

わずかに意味のようなものが

立ち上がりかけるが、

 

それが何であるかを

確かめようとした時点で、

 

もう別のものにすり替わっている”

 

 

そんな言い回しが、

 

どこかしっくりきてしまう気もして、


ふと振り返れば、
 

 

いま並べた、この言葉の辿り着き方

そのものが、

 

あの掴めなさと
どこか通じているようにも思えた。

 

 

 

 

スキンヘッドに、全裸にと、
 

クリストフ・ヴァルツが体を張って、

この違和感に満ちた世界を

形にしているのに、

 

テリー・ギリアムを含めて、

そこには特に触れようとしないあたりに、
 

どこか可笑しみが残り、

 

 

その、クリストフ・ヴァルツが演じた、

 

エンティティを確定しようとする者

でありながら、

 

最も非エンティティ的に揺らぐ存在でもある

コーエンが、


廃墟の教会に留まるその姿は、

どこか修行僧めいていて、



“教会”という場所が、
 

“境界”のようにも立ち現れてくるなか、

 

 

同じ線上に現れるのが、

 

 

救いのようでありながら、
 

その実在も意味も曖昧な、

“彼女”としても定まりきらない
ベインズリーで、

 

 

ベインズリーを演じた

メラニー・ティエリーは、

 


ベン・ウィショーや、


クリストフ・ヴァルツといった

顔ぶれの中に置かれると、

ふと、レア・セドゥの姿まで重なり、

 

 

その重なりの中で、
 

“彼女”という存在が、
 

いっそう非エンティティの側へと

揺らいで見えてきて、

 

 

一方で、

 

マット・デイモンが演じる、


“マネージメント”なる存在は、

 

“非エンティティ的”や、

 

“非エンティティ側”といった

言い回しでは収まりきらず、


エンティティか否かという枠組みの外に、

 

あらかじめ置かれているようにも

感じられ、

 

 

ヴァルツやティエリーが、


“姿”として揺らぎを生むのに対して、


それとは別に、
 

風景そのものに溶け込むように、

この世界の足場を

じわりと不確かなものにしており、

 

 

さらに、

 

そのマネージメントの息子とされる

ボブを演じているのが、

 

 

いまや気づけば、

 

さまざまな作品に顔を出し、

 

どこかマット・デイモンを思わせる

顔立ちの、

 

ルーカス・ヘッジズで、

 

 

彼のどんな役にも自然と馴染んでしまう

その在り方が、

この役においては、
 

どちらの側にも寄り得る曖昧さとして

浮かび上がり、


 

コーエンとマネージメントのあいだを

行き来する、
 

“名づけきれない媒介”とでも

言うべきもののようにも思え、

 

 

加えて、

 

ウィッグやメイクで
異様に作り込まれた外見のせいか、


最初、ティルダ・スウィントンが

演じているとは気づかなかった、
 

シュリンク博士にしても、

 

 

やはり他と同じく、

 

掴みどころを欠いたままという、

 

 

結局のところ、
 

この世界に現れる人物の誰ひとりとして、
 

確かな正体を伴っているとは

言い切れないようで、

 

 

特に、

 

コーエンの上司ジョビーを演じた
デヴィッド・シューリスは、


過去記事の「キングダム・オブ・ヘブン」

で触れた、
 

“ホスピタラー”の意味深な在り方が
まだ記憶に新しいだけに、

 

個人的に、どこか拭いきれない

違和感が残り、


“オールフロント?”とでも

呼びたくなる髪型も、

 

“トラぬタヌキの皮算用”とでも

言いたくなる着ぐるみも、

 

 

どこか収まりきらないまま、
 

その違和感だけを際立たせていた。





 

この作品で扱われている“ゼロ”は、
 

本来であれば指し示すことも

定義することもできない、
 

いわば非エンティティであるはずのものが、


証明しろ、到達しろ、完成させろと、
 

あたかも確定された“それ”として

扱われていく。


 

一方で、

彼女や、友人や、

仕事や、意味や、システムといった、


確かな輪郭を持っているはずのものは、


決定打を欠いたまま、
 

どこかで定まりきらず、

“それ”として成立しきらないまま
揺らいでいる。



つまりここでは、

本来“それ”にならないものが
“それ”として求められ、


“それ”であるはずのものもまた、
 

“それ”として定まりきらないまま
ただ増殖し続けていくようで、


その曖昧さだけが層をなすように残る。

 

 

 

 

“無(nothing)”とは、

 

そもそも“それ”として成立するものが

存在しない状態であり、


“すべて(everything)”とは、
 

“それ”が無数に立ち現れている状態で

あるはずだが、


区別という一点から見てみると、
 

 

前者は区別そのものが成立せず、
 

後者は区別が過剰であるがゆえに
かえって意味を失っていく。

 

 

そのどちらも、区別の手応えを

失わせていくところが、

 

 

この作品が見せる、
 

 

分かりそうで分からない、

意味がありそうで崩れていく、
 

 

あの感触にそのまま重なり、

 

 

この感覚はどこか、

 

「キングダム・オブ・ヘブン」

におけるサラディンの言葉⸻

 

“何もない、しかしすべてだ”という、

 

 

あの矛盾をそのまま引き受けた在り方にも、

 

わずかに通じているように思えてくるが、

 

 

本作の場合、

 

それは両立しているのではなく、

 

 

どちらにもなりきれないまま、
 

意味だけが宙に浮かび続けており、


 

その気配が、

 

異様に映ってしまう理由なのかも

しれない。