映画「きっと ここが帰る場所」を観た。
「グレート・ビューティ」で、
パオロ・ソレンティーノの
映像と音楽にすっかり魅せられ、
味を占めて手を伸ばした一作。
ソレンティーノ作品でいうと、
「イル・ディーヴォ」、
「きっと ここが帰る場所」、
「グレート・ビューティ」の順で、
「イル・ディーヴォ」を観たショーン・ペンが、
ソレンティーノに惚れ込み、
ラブコールを送ったことが、
本作のきっかけになったとも
言われており、
あれほど陰鬱で重苦しく、
猫背で陰気な男を主人公に据えた物語の、
どこにショーン・ペンは
惹かれたのだろうと不思議なのだが、
ともあれ、
そんな熱烈なラブコールを受けた
ソレンティーノ自身は、
さぞ気を良くしたのだろう、
“あっ、映像美?なら今回も”
とばかりに、
得意技を盛り込んでいて、
ただ、
聖女の膝階段や、床で爆睡する姿なら
まだ許せても、
公園を疾走するローラースケーターが、
派手に転倒するだけの光景には、
さすがに首を傾げ、
“俺が撮れば、転倒だって美しい”
ではないが、
いささか、やり過ぎではないかと
思えてならず、
素人の私からすれば、
ただただ大笑いする場面でしかなく、
そもそも、この作品、
主人公シャイアンの、
まるでシザーハンズのような
風体を見てもわかるように、
笑わせに来ているのではないかと
思わせる節があり、
その頻度たるや、
過去記事で扱った「バードマン」に
匹敵するほどで、
先ほどのローラースケーターの
エピソードをはじめ、
噂の“ギブス女”にでくわしたシャイアン、
大人気ない卓球に臨むシャイアン、
レイチェルの息子とセッションする
シャイアン、
“すみません、わざとやったんです”
など、
こうした笑いの多さからも、
ソレンティーノの上機嫌ぶりが
窺えるのだが、
LINEのスタンプにも登場しそうな
このシャイアン、
どうやら、
笑いを取るために生まれた
キャラクターではなく、
モデルとなったのは、
あのゴス・ロックの象徴ともいうべき、
ザ・キュアーのロバート・スミス。
ソレンティーノによれば、
シャイアンのキャラクターを
模索していた頃、
50歳になったロバート・スミスが、
20歳の頃と変わらぬ姿でいるのを見て、
大人でありながら、
いまだ少年の姿をしている。
その矛盾の中に、
美しさと感動を見出したようで、
ソレンティーノが、
“これやあ!”
と言ったかは知らないが、
シャイアンの像は、
そこで固まったのかもしれず、
数か月後、
ショーン・ペンの
メイクと衣装合わせで試したところ、
同じ感覚を再び味わったと言うのだから、
彼独特の美意識が
見事に功を奏した一例とはいえ、
“美”以外、頭にないのかと
思わず苦笑してしまうが、
ふと、
そんなソレンティーノの美意識に、
ショーン・ペンは
惹かれたのではないかと、
そんな気がして、
そういえば、
“速い映画で
遅い男たちについて描き、
とても悲しい物語を
楽しませながら語っていた”
というショーン・ペンの、
「イル・ディーヴォ」に関する談話は、
“速さ”と“遅さ”、
“悲しさ”と“楽しさ”。
相反するものを
同居させてしまう感性──
ソレンティーノが、
“美しい矛盾”と呼ぶものにも
通じるように思えて、
ペンにしてみれば、
まさか自分のラブコールが、
作品どころか、
自身の身体に跳ね返ってくるとは
夢にも思っていなかっただろうが。
それにしても、
ソレンティーノには、
独特の美意識だけでなく、
予知能力まで搭載されているのだろうか、
作中でシャイアンは、
“ミック・ジャガーと歌っていた人!”
と言われると、
“ミック・ジャガーが僕と歌ったんだ”
と、わざわざ訂正する。
映画は2011年公開だが、
そこから15年後の2026年、
シャイアンのモデルとなった
ロバート・スミスは、
自ら申し出たのではなく、
ミックに誘われて
本当にストーンズの曲に参加し、
まさしく、
“ミック・ジャガーが僕と歌ったんだ”
になる。
予知だけでも十分凄いのだが、
そこに至るまでの経緯もまた、
実に奇妙なもので、
アルバムのプロデューサーから
ストーンズとのランチに誘われるも、
“夜しか起きてないから”と、
これを辞退。
ところが、本当は、
“ミックやキースと食事を共に
するなんて、なんだか奇妙で緊張する”
と感じたためらしく、
“もう二度と彼らと仕事をする
チャンスはない”と、
後に、本人は絶望。
しかしその後、
アルバムのレコーディング終盤、
深夜のスタジオで、
なんと彼は、ミックと偶然出くわす。
長いガウンに口紅をつけ、
背を向けて立っていたロバートが
振り返った瞬間、
“君、ロバート・スミスじゃないか!”
ミックは叫び、そして、
“せっかくここにいるんだから、
何か演奏してくれよ”
と、その場で参加を持ちかけ、
気づけばロバートは、
ギターにシンセサイザー、
さらにはコーラスまで
録音していたという。
ロバート・スミスが参加したからには、
さぞかしその“音楽性”が
堪能できるのかと思いきや、
よく聴かなければ、
どこにロバートがいるのかも
分からないほどだったのは残念で、
ひょっとすると
ミックが欲しかったのは、
ロバート・スミスの音より、
“Robert Smith”という、
名前だったのではないかと
勘ぐりたくもなるのだが、
それでも、子供の頃から
ストーンズを聴いて育った、
ロバート・スミス自身は
大喜びしており、
人生で最も予期せぬ、
エキサイティングな出来事と
なったようで、
誘いを断り、
“もう二度とチャンスはない”
と絶望した男が、
結局、深夜のスタジオで
ミックに見つかり、
そのまま一緒に録音してしまう──
なんとシャイアン的なのだろう。
ひょっとするとソレンティーノは、
シャイアン構築のお礼とばかりに、
今度はロバート・スミスの人生に、
サプライズを仕掛けたのではないか
とさえ思えた。
本作で夫婦役を演じた、
ショーン・ペンと、
フランシス・マクドーマンド。
オスカー像を複数お持ちの二人は、
“シャイアン” “そのパートナー”
という仮面を被っていなければ、
かなり危うい組み合わせ
だったかもしれず、
もし二人が揉めようものなら、
オスカー像をちらつかせながら
相手を威嚇しかねない緊張感があって、
個人的には、パートナーは、
野心など微塵も感じさせない、
サリー・ホーキンスぐらいのほうが
良かったような気がし、
しかも、
夫婦と交流のある
近所に住むゴスの少女が、
オスカーは持っていないが、
あのボノの娘、
イヴ・ヒューソンという。
ここまで壮大なキャスティングでないと、
ソレンティーノは
安心して眠れないのだろうかと、
こちらが心配してしまい、
さらに、ソレンティーノが、
『This Must Be the Place』という
タイトルを拝借した、
トーキング・ヘッズの
デヴィッド・バーンには、
彼のドキュメンタリー映画かと
見紛うほど、
本作の中で丸々一曲
気持ち良く歌わせたうえに、
シャイアンを通じて、
“君はポップスターなどではなく
アーティストだ!”
などと褒め称えており、
あたかも、
受けた恩義を
生半可に返したのでは、
おちおち眠れないとでも言いたそうな
勢いがあって、
また、別のキャスティングに
目を向けると、
ナチ狩りのプロフェッショナル、
モーデカイ・ミドラー役に
ジャド・ハーシュを据えたのは、
世間から身を潜めるように生きる
その役柄から、
てっきり、
「旅立ちのとき」の彼を
ソレンティーノが想起したのかと思いきや、
どうやら、
ショーン・ペンの推薦によるもの
だったようで、
ハーシュを見た瞬間に、
人間的で、繊細で、気難しく、
好感が持て、父親らしい、
モーデカイ役そのものだと感じたと、
ソレンティーノが
絶賛しているところから察するに、
おそらく、
ペンへの恩義で眠れなかった日々も、
当然、あったようにも思われ、
挙げ句の果てには、
睡眠不足で
やけくそにでもなったのだろうか、
“ロードムービーなら彼しかいない”
とでも言わんばかりに、
今度は、なんの脈絡もなく、
ハリー・ディーン・スタントンも
登場するという──
もっとも、
シャイアンが愛用する
キャスター付きスーツケースの恩義まで、
きっちり返そうということなら、
スタントンがロバート・プラース役で
登場しているのも、
それはそれでソレンティーノらしいが。
そして、つい先日も見た顔が、
ここにもいることに気づいたのが、
シェー・ウィガムと、
ケリー・コンドン。
シェー・ウィガムは、
本作では、
シャイアンに車を貸す
怪しげな金融ブローカー、
アーニー・レイを演じ、
14年後の、
ブラッド・ピット主演の映画
「F1/エフワン」では、
ソニー・ヘイズ(ブラッド・ピット)
が参戦するデイトナ24時間レースの、
チームオーナー役を演じていて、
どちらも、
主人公の旅の途中に、
一瞬だけ立ち寄られる男──
あたかも、
“サービスエリア俳優”
とでも言わんばかりで、
ケリー・コンドンは、
本作では、ランゲの孫娘として
シャイアンの前に現れ、
彼を自分の側へと一度引き寄せる
レイチェル役を演じ、
「F1/エフワン」では、
ヘイズの恋人となるケイト役を
演じており、
どちらも、
勝手にどこかへ行ってしまう男の足を、
一度は止める女──
まるで、
“男を旅立たせない女優”
といった風情があって、
ソレンティーノが
本作で二人と結んだ縁からだろうか、
“彼らをこんな役どころで
使ってください” と、
14年越しに、
「F1/エフワン」のキャスティングへ
口を出していたのかとさえ思えた。
父親の仇である、
ナチの残党ランゲの元へと乗り込んだ
シャイアン。
シャイアンにとって、
ランゲの語る
“一番、模倣”とは、
目の前の老人が確かにあの時代を
生きた人間であることを確認する、
最初の手掛かりであり、
“二番、屈辱”では、
シャイアンの父親がランゲから受けた
忘れがたい屈辱が明かされる。
そして、
“三番、奪われたもの”。
話を聞くにつれて、
最初はただの”父親の仇”でしかなかった
ランゲという男が、
シャイアンの父親から、
何十年にもわたって辛辣な手紙を
送りつけられていた人物として、
少しずつ浮かび上がり、
やがて、シャイアンが
父親の日記で目にした言葉が、
なんと、
ランゲの口からも飛び出す。
彼もまた、
父親が奪われたものについて
淡々と記したその言葉を、
今なお記憶していたのである。
つまり、ランゲは、
父親の人生を奪った男であり、
一方で、
何十年ものあいだ、
父親の言葉を抱えたまま、
自身もまた、
父親という存在に、
自らの人生を捕らわれ続けていた
男だったのかもしれず、
シャイアンは、
そこに自分自身を
見たのではないだろうか。
父親の仇を追って
ここまで来たシャイアンは、
結局、
父親に人生を捕まえられていた、
もう一人の男を見つけ、
そして、
その男を残して歩き出す。
それは、
父親を追い続けてきた息子が、
ようやく自分の人生へ
戻っていく瞬間だったのかもしれない。
“あなたは子供だから煙草を吸わない”
という、
メアリーの母の言葉が、
最後に回収される。
煙草を吸い、髪を切り、化粧を落とし、
帰ってきたシャイアン。
彼が帰ったのは“家”ではなく、
本来の大人である自分。
そして、
息子トニーを待ち続ける
メアリーの母は、
その姿を見て微笑む。
そこには、
“子供はいつか家を出て、
大人になって帰ってくる”
という、トニーへの
小さな希望まで芽生え、
ここで映画は終わる。
ま、ラストの考察は
これくらいにしておいて、
何が気になるかと言えば、
「イル・ディーヴォ」に続き、
本作も絶賛したショーン・ペンの、
“ソレンティーノがピアノを弾き
俺は譜めくりをしているようだった”
という、「譜めくりの女」ならぬ、
「譜めくりの男」発言。
ソレンティーノが
自分のラブコールに応じ、
“美しい矛盾”を、
トニ・セルヴィッロ主演ではなく、
自身主演の作品で
再現してくれたばかりか、
自身の身体で体現してくれたことに、
感極まったのは汲み取れるとしても、
結局、譜めくりの男とは
何の比喩なのか。
せめて、音を奏でる側に
例えてくれたら、
まだ納得できたような気もして、
少なくとも、
これを聞いたソレンティーノは、
また眠れない夜を過ごしたに違いない。
