TO NI LAND 

 

 

映画「バットマン フォーエヴァー」

を観た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前記事でバットマンに触れた際に、

 

長年放置していた

“ある案件”が脳裏をよぎり、

 

 

この機会に一度

確認しておこうと思っての観賞で、

 

 

夜しか存在しない

巨大セットのような人工都市感は、

 

「ストリート・オブ・ファイヤー」

と同様だが、

 

 

こちらは、

 

その“作り物感”を抑えるどころか、

 

むしろ全力で

肥大化させているように思え、

 

 

多国籍的な猥雑さと、
 

ネオンに覆われた都市景観も、

 

「ブレードランナー」的では

あるのだが、

 

 

それらが、
 

世界の崩壊を示す記号として
機能しているわけではなく、

 

“世界観”というより、
 

“テンションを上げるビジュアル要素”

として扱われているきらいがあり、

 

 

言ってしまえば、

 

“ロックMV的人工都市”と、

 

“退廃未来都市”の表面だけを抽出し、

 

 

ネオンと悪趣味を過剰に振りかけた街

といった気配が漂っていて、

 

 

そこに巣食うのは、

 

バイカー風?

コンバットブーツ?

赤黒ツートンのスキーマスク?

ピアスまみれ?のような、

 

 

“世紀末感”だけを雑に寄せ集めた、
 

トゥーフェイスお抱えの連中であり、

 

 

蛍光塗料?

光るメイク?

発光スーツ?

 

おまけに、ライトセーバー?笑

まで振り回す、

 

“ブラックライト対応型カルト集団”

とでも言いたくなる住人たち──

 

 

そんな悪役テーマパークにでも

迷い込んだかのような、

 

ゴッサムのビジュアルと気配に

まずは圧倒され、

 

 

やがて、

 

いかにもシューマッハ好みの
過剰な身振りで体をしならせながら、

 

ジム・キャリーは

ただただ絶叫し、

 

 

“真面目にやった方が負け”

と悟ったかのように、

 

トミー・リー・ジョーンズは

ひきつり笑いのままコインを投げ続け、

 

 

ドリュー・バリモアだけが、

 

まるで別の映画から

紛れ込んだかのように静かで、

 

 

クリス・オドネルは
やたらとピアスを見せたがり、

 

 

ニコール・キッドマンが

“理想の男探し”を続ける傍ら、

 

 

バットマンのスーツには、

 

なぜか乳首まで

造形されているという──

 

 

もはや、

 

“真面目に観た方が負け”

と悟りかけたところで、

 


“なぞなぞ男”には

なぞなぞを、
 

“コイン男”には

コインをぶつけるといった、

 

開き直りみたいな結末まで待っており、

 

 

正直、本編そのものには、
 

最後まで振り回されっぱなしで、


 

“作品”というより“商品”として

暴走していたようにも見える、

 

「バットマン フォーエヴァー」

だったからこそ、


ヴァル・キルマーは、
 

 

観客が見ているのは、

 

“ヴァル・キルマーのバットマン”

ではなく、
 

それぞれの頭の中にある、
 

“既存のバットマン像”

なのかもしれない──
 

 

などという思いを、
 

どこかで抱いたのかもしれず、

 

 

バットマンを演じる俳優たちは皆、
 

“キャラクターを成立させている”
というより、
 

 

既に完成された巨大な偶像へ、
 

身体を貸しているような感覚を
どこかで抱えるのだとしても、

 

 

“There is no Batman.”

 

そんな、

 

単なる撮影苦労話では済まされない、

 

妙に虚無感を帯びた言葉を、
 

キルマーに思わず口に出させてしまった
一点において、


この映画には、

どこか価値があるような気もするが、

 

 

「フォーエヴァー」の話は

さて置いて、

 

 

ふと、思ったのだが、

 

身体は貸すことになったとしても、

 

 

バットマン俳優たちにはまだ、
 

“ブルース・ウェイン”という男を

演じる余地が残されていて、

 

 

素顔、声、表情、情緒──


つまり俳優は
完全には消えておらず、


観客もまた、

 

 

マイケル・キートンは

奇妙な孤独を、

 

クリスチャン・ベイルは

己を削るような執念を、

 

ロバート・パティンソンは

社会へ馴染めない危うさを、

 

 

そしてジョージ・クルーニーは、
 

“ジョージ・クルーニーそのもの”を、


それぞれ“ブルース・ウェイン”へ

持ち込んでいたことを、
 

なんとなく記憶しているが、

 

 

ここで不意に思い返されるのが、
 

 

過去記事でも触れたことがある、

 

エドワード・ノートン演じる
ボードゥアン4世で、

 

 

彼のように、


仮面を一切外さない存在だったら

どうなるのか。 

 

 

もしあのボードゥアン王が、

 

大ヒットシリーズのように、
 

何人もの俳優によって

演じ継がれていたなら、


観客は次第に、

 

“エドワード・ノートンの

ボードゥアン王”ではなく、
 

 

“ボードゥアン王そのもの”を
見るようになっていた気もして、


仮面、静かな声、

死にゆく聖王としての威厳──

そうしたイメージだけが共有され、

 

 

やがて最初にそれを形作った
ノートン自身の痕跡すら、

 

少しずつ後景化していったのでは

ないだろうか。


そこまで考えた時、

 

ようやくキルマーの、


“There is no Batman.”という言葉も、
 

 

妙に現実味を帯びて響いてくるが、

 

 

それにしても、

 

仮面の内側へ、

 

あれほど濃密に

“エドワード・ノートン”を残してみせた、


ボードゥアン4世という存在は、
 

 

今思うと、

 

かなり特殊だったようにも思えて、


ノートンなら、

 

“ブルース・ウェイン”

という逃げ場すら持たず、
 

 

終始バットマン姿だったとしても、
 

 

観客は、“既存のバットマン像”ではなく、
 

“エドワード・ノートンのバットマン”を
見てしまったのかもしれないと思った。

 

 

 

 

 

ヴァル・キルマーと、


ニコール・キッドマンが

並んでいると、


私の頭に浮かぶのは、なぜか、

 


病院で車椅子レースに本気になる

キルマーと、

『愛は吐息のように』が流れる中
キスを交わすキッドマンで、


 

何かが微妙に捩れている気もするが、

 

 

さらに捩れているのは、



トゥーフェイスを演じた、

トミー・リー・ジョーンズをおいて
他になく、


無骨さ、不機嫌さ、異様な圧──

かなり強烈に“本人性”が残る俳優
であるにもかかわらず、


本作では、異様に大袈裟で、
カラフルで、下品で、

 

 

トゥーフェイスを演じているというより、

ニコルソン版ジョーカーの
幻影を演じているように見え、


本来、怒りや悲劇性

分裂感を背負うはずのキャラクターが、


ほとんど

“もう一人のジョーカー”化しており、



その姿は、

トミー・リー・ジョーンズが
自分自身を持ち込むというより、


 

“バットマン映画”という

既に出来上がった商品フォーマットへ、
 

無理に歩調を合わせているかのようでも

あって、

 

 

無理に歩調を合わせているどころか、

 

水を得た魚のようだったのが、

 

リドラーを演じたジム・キャリーで、


その勢いたるや、

 

もはや、“バットマン映画”というより、

映画「マスク」のスピンオフと
言われても不自然ではなく、

 

 

数々の小ネタの中でも、

“ブルース・ウェイン”のホクロまで
真似ているのを見た時には、

思わず吹き出し、

 

 

さらに、

“ブルース・ウェイン”の子役までもが、

ホクロをあしらっているのに
気付いてしまった時には、

 

 

もはや誰の入れ知恵なのかは

察しがつき、

 

 

そんなジム・キャリーの熱量に、

すっかり巻き込まれていたように

見えたのが、
 

クリス・オドネルで、

 

 

“これでオレの未来も約束された!”
と言わんばかりに、


ジャン=クロード・ヴァンダム並みの
アクションや、

ジャッキー・チェンの二番煎じみたいな
洗濯まで披露してみせるのだが、

 

 

まさか、

ここが絶頂だったとは、

本人も思っていなかったはずで、

 

 

ラスト、バットマンと共に、

意気揚々とカメラへ駆け寄る
彼のシルエットは、


後のことを思うと、どうにも眩しすぎて、

 

 

一方で、

ジム・キャリーの熱量を

目の当たりにして、


“今日はもういいか”
となったのかもしれないのが、

 

ドリュー・バリモアで、

 

 

一体、何があったのかは謎だが、

せっかく彼女を起用した以上、

もう少し何かさせても良かったのでは

という気もして、

 

 

個人的に気になったキャストは、

 

 

ニグマ(ジム・キャリー)の上司

フレッド役を演じた、

 

エド・ベグリー・ジュニアで、

 

 

近年、

 

映画「アムステルダム」で

死体役だったのは、

 

まだ記憶に新しいが、

 

 

「キャット・ピープル」では
豹に腕を食いちぎられ、


「ストリート・オブ・ファイア」では
ホームレスのような男となり、


本作では、


ニグマにビルから突き落とされる──

 

 

どの作品でも、


だいたい酷い目に遭っているような

気がして、

 

 

どこかで一度くらい、


幸せな役はなかったのだろうかと

思うのだが、

 

それはさておき、

 

 

次の“ジョーカー”役は

女性なのではないかと、

 

常々思っていて、

 

 

ニコール・キッドマンが最有力、


それに継ぐのが、

メグ・ライアンではないかと
私は予想している。

 

 

 

 

冒頭で触れた“ある案件”とは、

 

 

“Sealの『Kiss From A Rose』が
本作でどう使われているのか”で、


 

ただそれだけのために観たと言っても、


あながち間違いではなく、

 

 

「シンドラーのリスト」の
赤い少女ではないが、


モノクロの戦闘シーンで、

薔薇の赤だけが
取り残されたように浮かび上がる中、


 

静かにあの曲が舞い降りるのだと、

てっきり思っていたのだが、

 

 

これまでのバットマン映画同様、

戦闘シーンは

相変わらず騒がしいままで、

 

 

ウェイン邸の広間に

赤い薔薇は飾られていても、

 

 

ウェイン夫妻の足元に
赤い薔薇が転がり落ちても、

 

なお、

 

あの曲が降りてくる気配はなく、

 

 

さすがに、

 

ニコール・キッドマンが
飾られていた薔薇を倒したときには、


条件は揃ったと思ったが、


やはり、そこもスルーで、

 

 

やがてエンドロールとなり、 

 

狐につままれたような気分でいると、 

 

 

ボノが気持ちよく一曲歌い切ったあと、

 

まるで残り時間の帳尻合わせのように、

 

 

シールは前触れもなく現れ、

 

曲の途中で

映画そのものが終わるという──

 

 

 

 

 

では、
 

私の頭の中にあった
あの名場面は何だったのかと言えば、

 

 

おそらく、昔観たであろう、

 

映画の映像を交えた

『Kiss From A Rose』のMVが、

 

脳内で妙に変異し、


「シンドラーのリスト」の記憶まで
乗っかってしまったのだと思われるが、

 

 

確認は完了したので、まあ良しとして、

 

 

その例のMV、


クリス・オドネルが行きずりの少女に、

まるで恋人にでもするような
口づけを交わしたあと、

 

 

一瞬、音楽が途切れ、

隙間に差し込まれる
バットマンの顔のアップ。

 

 

びっくりして振り向いた

猫にしか見えず、

 

思わず吹き出したのだが、


私だけなのだろうか。