映画「オペラ座の怪人」を観た。
前記事で触れた、
ジェラルド・バトラーを
きっかけにした再見だが、
「タイタニック」で言う、
沈み、廃墟と化した船が、
一瞬にして
真新しい当時の姿を取り戻す、
あの導入や、
ノイマイヤー版「椿姫」の、
死と静止の現在から、
ショパンピアノ協奏曲第2番と
ともに記憶が立ち上がる、
あの始まり方──
ベタだと言われれば
それまでなのだが、
形だけが残った現在から、
最も輝いていた過去へと遡っていく
あの儀式が、
私はどうにも好きで、
“私も若返らせてくれ”
などと、つい思ってしまい、
本作の冒頭でも
オペラ座のシャンデリアが、
マザーシップのように
立ち上がるその瞬間、
私はまた、
同じ種類の興奮を覚えたのだが、
ま、それはさて置いて、
本作のジェラルド・バトラー、
兜か仮面か、
赤マントか黒マントかの
違いはあれど、
その姿はさしずめ、
“黒いレオニダス”とでも
呼びたくなり、
劇中劇でのハンニバルの長い顎髭や、
その舞台に登場する象、
ペルシア衣装を着て
シンバルを叩く猿といった、
なぜか「300」を連想させる造形に加え、
劇中歌『Why Have You
Brought Me Here』で語られる、
“千人殺せるほどの燃える眼差し”
という言葉、
さらには、
洞窟の隠れ家に置かれた
“ディリオス”の眼帯らしき存在は、
その空気感を煽っているかのよう
でもあったが、
挿入歌『The Mirror』においての、
導く者と、呼びかける者、
上から与える声と、下から乞う声、
それらを並べた瞬間、
ベクトルが正反対であることが
否応なく浮かび上がり、
導く者は「来い」とは言わず、
天使を名乗る者が
他者を「天使よ」と呼びかけた時点で、
その足場は揺らぎ始める
にもかかわらず、
“私はおまえを導く音楽の天使だ”と
語りかけながら、
すぐさま、
“私のところへおいで、音楽の天使よ”と
その言葉を彼女に向けてしまう、
本来なら、
題名に寄せた作為として
片づけられてもおかしくない、
あの“音楽の天使”という言葉が、
彼の演じるファントムだと、
それが、役割として差し出された
声ではなく、
抑えきれない感情が、
先に滲み出てしまった声として
聞こえてしまうせいか、
どうにも落ち着かず、
前半で立ち上がりかけていた
“黒いレオニダス”という期待だけが、
ふいに宙づりにされ、
なおも彼が、
教えているつもりでいて、
支配しているつもりでいて、
神話を与えているつもりでいる一方で、
彼女の声に救われ、
彼女の存在によって自分が保たれ、
彼女こそが“光”だと
気づいてしまった倒錯のなかでは、
捩れも、破綻もするわけで、
その結果として立ち現れるのは、
英雄にもなりきれず、
怪物として割り切ることもできず、
終わることすら許されなかった存在、
“終われなかった英雄の変種”
とでも言おうか、
それが、
ジェラルド・バトラーが演じた
ファントムの姿だったようにも思え、
これまで私が触れてきた
英雄像で言うなら、
マキシマスは、人として死に、
レオニダスは、像として残り、
ファントムは、役割の往復に
縛られたまま消えていく──
英雄の行き着く先が、
死と、神話と、循環不全へと
分かれていく構図は、
出来すぎているほどだが、
その行き着き方を決定づけた存在、
本作では、クリスティーヌからも
目を逸らすことはできず、
循環不全という、
最も厄介な場所へ組み込まれて
しまったうえに、
未来を一足先に奪われ、
花嫁の姿で立たされていたという、
あまりに露骨で、
あまりに残酷なチョイスを
突きつけられた彼女が、
即刻、気を失ってしまうのも
無理はないように思えた。
「300」でも寡黙さが印象に残る
ジェラルド・バトラーだが、
ミュージカルである本作では
言葉の多くが歌へと集約されるぶん、
セリフの時点で気になっていた、
ノーがニョーへ、
クイックがキュイックへ、
ハ行音がヒャ行へと流れてしまう、
あの独特の拗音癖が、
旋律に乗った瞬間
隠しきれず前面に浮かび上がり、
結果としてそれが、
ファントムという人物の不器用さや
息苦しさをそのまま音にしたような、
深い悲哀として滲み出ていて、
そして、仮面を取った彼の素顔は、
さながら「バニラ・スカイ」といった趣で、
バトラーにしろ
トム・クルーズにしろ、
“男前”という属性はどうも、
映画の中で一度は崩される宿命でも
背負っているのか、
などと思ってしまい、
崩れるどころか、
弾けるような若さで、
こちらの視線を
一気に引き受けてしまうのが、
クリスティーヌを演じた、
当時まだ16、7歳のエミー・ロッサムと、
彼女よりやや年上の、
友人メグ役ジェニファー・エリソンで、
エリソンは一瞬、
サマンサ・モートン級の
何かを期待させる顔立ちなのだが、
その期待は、
最初から成立していなかったことが
あとから分かり、
ロッサムのほうは、
見た目だけなら
ジェニファー・ビールス、
歌が入ると、デビュー当時の早見優
を思わせる感触で、
その瑞々しさが際立つほど、
妙に間合いの近い
年長の男たちとの絡みでは、
物語とは別の回路で、
観る側の倫理が作動しそうで、
その引き金の位置に、
バトラーと共に並んでいるのが、
ラウル役の
パトリック・ウィルソンであり、
バトラーとは
本作では対立する立場にあるが、
ザック・スナイダー作品という
文脈に限れば、
「ウォッチメン」の
ナイトオウルとして、
すでに一度、別の座標で
並び立っており、
ただし、歌となると
その並びは成立せず、
同列に置こうとするほど、
ウィルソンの余裕だけが際立ち、
ロッサムとの、
切実な感情を内側に抱えた
『All I Ask Of You』では、
ふと、ボチェッリの名が脳裏をよぎる
ほどの声の完成度に息を呑み、
近年、彼はジェームズ・ワン作品の
顔としてほぼ定着しており、
となれば、
ヴェラ・ファーミガとの共演に、
歌まで期待してしまうのも無理はなく、
歌まで期待したのだが、
本物のオペラ歌手として描かれる
役どころのため、
メインキャストで、ただ一人
歌唱を他人に委ねているのが、
ヘレナ・ボナム=カーター的な
既視感をどうしても振り払えない、
カルロッタを演じた
ミニー・ドライヴァーで、
歌手でありながら唄えない
その鬱憤を晴らすかのように、
イタリア語の強烈な抑揚と、
過剰な声量だけが印象に残り、
その他キャストで印象に残るのは、
ブケー役を演じた
ケヴィン・マクナリーで、
「パイレーツ・オブ・カリビアン」
シリーズにおける、
スパロウの右腕たる航海士として
知られる彼が、
舞台の天井裏に立つと、
そこはもはや船上のような
色合いを帯びて見え、
そんな彼がミュージカルとあれば
唄いもすれば平手打ちも食らう、
そのあたりまでは愉快だったが、
首吊りという結末は、
“オーメンではあるまいし”
と、どうにも後味がよろしくなく、
一方で、
アンドレ役を演じた
サイモン・キャロウは、
なぜか彼のデビュー作
「アマデウス」と同様に、
鶏のようなスタイルで
仮面舞踏会に登場する、
作品の空気を一度、
意図的に脱臼させる役どころで、
悪趣味ではあるが、後は引かず、
さらに淡々としているのが、
ジェラルド・バトラーにも劣らない
眼力を携えた、
キアラン・ハインズで、
支配人アンドレの相方である
ファルマン役を、
何食わぬ顔で演じていたものの、
個人的には「ミュンヘン」でのカール役が、
いちばんハマっていたと思うだけに、
ミュージカルは場違いな気もして、
しかし、なんと言っても、
場違いどころか、
彼女あってこそと
思わされてしまうのが、
「クライング・ゲーム」では、
ミア・ウォレスの気配を
まとっていたかと思えば、
本作では仮面舞踏会に
なぜか日本髪を結って現れ、
しかも、
どこかルイーズ・フレッチャーの名が
脳裏をよぎる、
ミランダ・リチャードソンで、
彼女の過去作「スリーピー・ホロウ」の
タッセル夫人が、
神話を、切り裂くための道具として用いた
女だとすれば、
「オペラ座の怪人」で演じた
マダム・ジリーは、
神話を、閉じ込めるための装置として
扱った女で、
同じ“怪物を理解している女”
でありながら、
一人は暴走させ、
もう一人は封じ込める、
その正反対の役割を、
どちらも無理なく
成立させてしまうところに、
ミランダ・リチャードソン
という女優の、
いちばん厄介な強度があって、
主役ではない、
だが、彼女が置かれた瞬間、
物語の温度と行き先が
いつの間にか定まってしまう──
そんな存在感が、
本作にも
静かに作用していたように思えた。
『償いの日々』では、
男性パート先行のあと
オクターブを上げてから、
高音の女性パートへと切り替わる
良心的な構造に対して、
『The Phantom Of The Opera』は、
女性パート先行の
オクターブ下げたところから、
“下げたからには高音で歌え”
と言わんばかりに、
いきなり男性が高音で
割り込んでくる仕様になっており、
作品と同じ名を与えられている
挿入歌とあって、
最大の見せ場に配置されていて、
アントニオ・バンデラスを含む
他の男性版では、
特に引っかかることもなく
耳を通り過ぎていたが、
本作のジェラルド・バトラー版は、
入りの声がやや高過ぎるように
感じられ、
友達とカラオケではないが、
実のところ、“ごめん、二つ下げて”
とでも言いたそうな、
無理の残った踏み出し方に
聞こえてしまい、
ふと、
──もしかするとファントムは、
クリスティーヌと向き合った瞬間
浮かれてしまった?
そう捉えた瞬間、
(※感情の制御が効かないまま、
音域が上振れする)
そんな注釈が、字幕の片隅に
見えたような気にさえなって、
これまでとは違う回路で
本作の解釈が立ち上がり、
そうなると、
キャンドルが自動点灯し、
馬が用意され、
(地下に馬常備という雑な豪華さ)
ボートまで待機しているあたり、
怪人の動線設計が、
どこかアトラクション寄りに感じられ、
さらに、
権威の演出、神話の演出、
英雄の演出と、
この日のために、
どれだけ“段取り”を
仕込んでいたのかは分からないが、
段取りは完璧に見えても、
その運びだけは、
どこか修学旅行初日の男子のように
落ち着きがなく、
“私はおまえを導く天使だ”
(※段取りに酔っている)
とでも注釈を入れたくなって、
だが、そうした一連の挙動を
眺めていくと、
ファントムが、
いわゆる“怪物”という言葉が
あらかじめ想定している像から、
大きく外れているのは
もはや明らかで、
怒りに身を任せるわけでもなく、
復讐を生き甲斐にするでもなく、
誰かを支配するほどの
覚悟や強さも持てないまま、
ただ、 音楽だけが過剰に先行し、
感情の制御や距離の測り方が
最後まで追いつかないまま、
地下でひとり、
舞台を整え続けてきただけの
人間に思えてきて、
そして、
手紙を書くことや
人形遊びが大好きで、
声を教え、舞台を用意し、
行き場のない愛を
振り撒くだけの存在だった彼は、
物語の終盤、
クリスティーヌの選択を前にしても、
怒りも、恨み言ひとつ漏らさず、
すべてを理解したまま
物語の外へと退いていき、
地下に残されるのは、
復讐の意志でも、
呪われた神話でもなく、
蝋人形と、
使われなくなった舞台装置と、
誰にも届かなかった
段取りだけが散らばる空間──
悪として裁くには、
彼はあまりにも
生活者すぎるのではないか、
そんな感覚だけが、あとに残ってしまい、
一方で、
クリスティーヌという存在を眺めていると、
彼女の感情の扱い方は、
まるで無垢を装ったまま、
プロだけが知っている手順を
正しく踏んでしまうかのようで、
同情し、理解を示し、
救済の言葉を与え、
キスまで差し出して希望を一瞬だけ灯す、
そして去る、
いや、去らない、
わざわざ戻ってきて指輪を返す、
イタズラ好きな少女のように
たまに怪人の仮面を外す、
どこにも悪意はなく、
計算もしておらず、
善意は常に100%なのだが、
その一連の所作は、
結果として
人の心を確実に壊すもので、
希望を与え、奪い、
なお、“正しい行い”として
成立してしまうその振る舞いは、
皮肉なことに、最も無自覚で、
最も残酷なやり方に思えてならず、
“猿を見て癒されているのに
わざわざそれをやりに戻るか?”
と注意したくなるほど、
ファントムが気の毒に思えてくるのだが、
そんな彼に、
さらに追い打ちをかけるかのように、
エンディングクレジットで
流れてくるのが、
ミニー・ドライヴァーによる
『Learn to be lonely』で、
その空気感は、
「M★A★S★H マッシュ」の主題歌
『Suicide Is Painless』が持つ、
あの乾いた皮肉と同じ系譜にあり、
もし、「裸の銃を持つ男」の
エンディングで流れていたとしても、
ブラックユーモアとして
成立してしまいそうな、
妙な軽さを帯びていて、
“これ以上、ファントムに
孤独を学べと言うか”と、
皮肉にも、こちらの同情だけが
深まってしまい、
挙げ句に、
「オペラ座の怪人」のポスターが、
ファントムの仮面が左右反転したまま
擦られているのに気付いたとき、
作品そのものが、
彼を最後まで
休ませる気はないのだと悟り、
“やめたれ…”
と、思わず声が漏れそうにもなって、
怪物を生んだのは、
社会でも、地下でも、仮面でもなく、
希望を与える側が、
それを奪う可能性を、
一度も想像しなかったことでは
なかったのだろうか──
そんなふうに思えてならず、
この物語は、ホラーとも
ロマンスとも言い切れないまま、
善意だけが行き交う場所に
生まれてしまった、
ひとつの地獄を描いていて、
“怪人”と呼ばれ続けた彼こそが、
最も生活者に近く、
最も誠実に生き延びていた存在だった
という事実に、
ふと、こちらのほうが
遅れて気づかされるように思えた。
──では、怪人とは、
結局、誰だったのだろう。
地下で暮らし、
音楽と段取りだけを武器に
どうにか生き延びてきた彼か、
それとも、
善意と正しさを疑わないまま、
希望を与え続けていた
こちら側だったのか、
少なくとも、
“怪人”という言葉が
彼ひとりを指すには、
この物語は、あまりに後味が悪い。
