映画「トロイ」を観た。
兜かぶって“アウー!”な男たちが、
好きで好きでしょうがない
わけではないのだが、
2000年の「グラディエーター」、
2006年の「300〈スリーハンドレッド〉」
を経て、
2004年の本作を観ない手はないだろうと、
ふと思いついたのがきっかけで、
冒頭に、リサ・ジェラルドの系譜を
受け継ぐかのような、
あのヴォカリーズが流れるのは
これまでと同じだが、
旋律の向こうに現れる、
テッサリアの平原を覆う
軍勢の規模にまず息を呑み、
とはいえ、それは前触れにすぎず、
その質量を踏み越えるかのように
現れたアキレスが、
ホップ、ステップ、ジャンプと
軽やかに間合いを詰め、
一突きでボアグリアスを地に伏せた、
そのとき、
マキシマスとも
レオニダスとも異なる、
速度と殺戮で形づけられた者に
目が釘付けになって、
ただならぬものに触れてしまった
という感触だけが残り、
だが、その少し前には、
昆虫だか薬品だかのような名の
アガメムノンが、
アキレスの名を高らかに叫んでも、
アキレスは寝坊したまま現れず、
荒いのは馬の鼻息ばかり、
さらには、
“母親が女神だから不死身なのか?”
と問う少年に、
“不死身なら盾など要るか!”
とアキレスが切り返す場面などもあって、
この落差に、
これは壮大な叙事詩なのか、
それとも途方もない規模の
喜劇なのかと、
一瞬、本気で迷い、
後に、ヘクトルから
兜を被せてもらったパリスが、
“メガネ、メガネ……”の
やっさんのように見えてしまう、
パリス対メネラオス戦は、
その疑念をさらに色濃くして、
アキレスの衝撃すら
一瞬かすむほどだったが、
叙事詩か喜劇かという迷い以上に、
本作で際立つのは、
倫理の重心が定まらないことによる
不安定さで、
「グラディエーター」は
復権の物語として、
観客は迷わず主人公の側に立て、
軸は一本で、怒りの向かう先も
明快であり、
「300」は滅びの様式を描き、
敗北すらも意味へと昇華する構造が
物語を強固に支えているが、
「トロイ」にはその支柱がなく、
愛、名誉、覇権、防衛、名声、
いずれも理解可能で、
いずれも退けがたい動機が並び立ち、
その先に導かれる悲劇が、
誰かひとりの過ちとして
収まらないまま、
ただ、選択が累積した果ての
風景だけが残されていて、
英雄譚というよりも、
英雄という概念が軋み、
揺らぎ、臨界へと傾く瞬間を
見つめる物語のような気がし、
様式も慰めも与えられないまま、
最後に残るのは、
確かなはずのものが
どこか頼りなく見えてしまう、
そんな感覚だったが、
冒頭でのナレーションや
テーマ曲で語られた、
永遠の中に埋もれてしまうことへの
あの不安をよそに、
アキレスたちは結果、名を残し、
そして、語られるたびに
更新されるのだとすれば、
不死とは肉体ではなく
記憶の側にあって、
アキレスの踵よりも脆いのは、
忘れられてしまうことのようにも
思えた。
アキレス役の ブラッド・ピット と
ヘクトル役の エリック・バナ は、
もはや言うまでもない存在感だが、
意外なはまり役だったのは、
格好悪いパリスを演じた
オーランド・ブルーム で、
衝動に走り、いざとなれば退き、
それでも愛だけは手放さず、
その中途半端さが善悪の軸を
曖昧にしているおかげで、
本作の不安定さを支えており、
唯一まともだったのは、
木馬を焼いてしまおうと
提案したことくらいで、
“奴らの前に出て大声で
君は僕のものだと叫ぶ!”と、
真顔でヘレンに訴える姿には、
彼女も、そしてこちらも
思わず言葉を失ったが、
この格好悪いパリスを演じたのが、
2000年代前半、
まさに“神話枠俳優”の中心にいた時期の
彼だったことも興味深く、
「ロード・オブ・ザ・リング」の
レゴラスという神話的な戦士を経て、
「パイレーツ・オブ・カリビアン」の
ウィル・ターナーという、
運命に翻弄される若き英雄を演じ、
その流れのなかで、
神話的に格好悪いパリス役を
引き受けており、
よく演じる気になったものだと思うが、
当の本人にとっても、
このあまりに情けない役は
相当に不満だったようで、
それでも、
レゴラスの弓は英雄を支えるが、
パリスの弓は英雄を終わらせる
という、
偶然にしては出来すぎた反転は、
どこかパリスらしくて
思わず笑ってしまい、
そのレゴラスの弓に守られていた
フェロウシップの一人、ショーン・ビーンが、
本作ではオデュッセウスを演じていて、
「ロード・オブ・ザ・リング」
のボロミアが、
“死亡俳優”の名にふさわしく
退場したのに対し、
今度は物語的にも歴史的にも
生き残る側に回り、
しかも、本作で最後まで立っている
主要人物は、
彼とオーランド・ブルームのみという、
神話映画の黄金期を象徴する二人が、
神話の終盤で並んで生き残る構図は、
まるでその時代の
記念写真のようでもあって、
一方で、
脇に目を移せば、
ダイアン・クルーガーの佇まいも
忘れがたく、
周囲が神話的英雄で固められた
画面のなかで、
彼女だけがどこか
現実の光をまとっていて、
その温度差が、
この物語の不安定さを
さらに際立たせており、
キーラ・ナイトレイのような、
より記号として完成された
輝きではなく、
理屈ではない、その美しさが
一瞬画面を支配するだけで、
歴史が動いてしまうと
思わせるだけの説得力──
それだけで、
この戦争は成立してしまう気がし、
記号と言えば、
アキレスの部下エウドロスを演じた
ヴィンセント・リーガンは、
「300」ではレオニダスの右腕とも
言うべき隊長を演じていて、
“共に戦えて光栄でした!”
の台詞は、
もはや、彼という俳優に貼り付いた
神話映画の常套句のようにも思え、
“英雄の隣で最期を見届ける男”
という記号を、
時代が彼に託していたかのようで、
さらに、
ボアグリアスを演じた
ネイサン・ジョーンズは、
「マッドマックス
怒りのデス・ロード」で、
イモータン・ジョーの息子
リクタス・エレクタスを、
ボアグリアスの名を高らかに叫んだ、
テッサリア王役の
ジュリアン・グローヴァーは、
かつて、ロジャー・ムーアや
ハリソン・フォード、
ショーン・コネリーをも
敵に回してきた男であり、
また、アイアスを演じた
タイラー・メインが、
「X-MEN」のセイバートゥース
であったことも、
彼らの役柄は違えど、
担わされている機能は
ほとんど変わらない気もするが、
それはさて置き、
客として招いた若者に、
その夜のうちに
妻を連れて逃げられるのだから、
大抵の男なら
剣を抜いてもおかしくないが、
その災難を真正面から浴びるのが
ブレンダン・グリーソンで、
奇しくも本作でブリセイスを演じた
ローズ・バーンは、
「ピーターラビット」では、
ブレンダンの息子ドーナル・グリーソン
の恋人役でもあり、
父は「トロイ」で妻を連れ去られ、
息子は「ピーターラビット」で
ウサギに家を占拠される、
ではないが、
どうやらグリーソン家は、
物語のなかで何かを奪われる側に
回りがちだと思われ、
しかし、なにが奪われているかといえば、
物語が自らの結末を引き受けるための
時間そのものであり、
プリアモス、アガメムノン、
アキレスという三本柱が、
「ボヘミアン・ラプソディ」の
ライブエイドよりもはるかに短い、
わずか十分足らずのあいだに
次々と退場してゆき、
その畳みかけは、
回収というより処理に近く、
まるで監督が、
“格好悪いパリスなんぞのために
尺を使い過ぎた!”
とでも言わんばかりの清算劇で、
結果として、
物語の不安定さを
決定づけてしまったように思えた。
この作品のクライマックスは、
プリアモスが敵陣に赴き、
息子ヘクトルの亡骸を返してほしいと
アキレスの前に膝を折る、
あの夜にある。
名誉も神話も退き、
ただ父の願いだけが
そこに残った夜であり、
そのプリアモスを演じているのが、
宮殿に立つだけで
どこか紫禁城の色を帯びさせる、
ピーター・オトゥールであることは
示唆的で、
かつて彼は「アラビアのロレンス」で
神話の誕生を体現し、
ここでは神話を鎮めに来る王となり、
さらに「ラストエンペラー」では、
歴史の終わりを見届ける側に
立っていて、
神話の始まりと終わり、
その両方を生きてきた俳優だからこそ
プリアモスの一言は重く、
あの瞬間、戦争は止まり、
英雄はただの息子へと引き戻される。
そしてあの夜以降、
アキレスの怒りは明らかに質を変え、
それは英雄の衝動というより、
時間を知った者の選択に見えるのだが、
物語はその転換を
真正面から引き受けず、
神話が崩れた瞬間を描きながら、
神話が崩れたことを
物語としては徹底しない、
だから観客は、
“いつからアキレスはこうなったのか”
という違和感を、
抱えたまま進むことに
なるのではないだろうか。
時間を知った英雄は、
もはや神話の中で無敵ではいられず、
アキレスが死んだのは
矢を受けた瞬間ではなく、
プリアモスの前で人間に戻った
そのときだったようにも思え、
だとすれば、
後半の慌ただしい清算は、
物語が自ら生んだ人間を、
再び神話の型へ押し戻すための
強引な帳尻合わせにも見えて、
もし、あの夜の重みを
最後まで背負っていたなら、
この神話は、もっと残酷で、
もっと美しい終わり方が
できたような気がした。
