TO NI LAND 

 

 

映画「グラディエーター」を観た。

 

 

 

 

 

 

 

今年一年はキツかった…。

 

 

 

そんな思いを抱えたまま、

 

「ベニスに死す」や

「ラストエンペラー」を観たあと、

 

 

たどり着いたのがこの作品

「グラディエーター」で、

 

 

“奴らの関心を脇にそらせりゃ

自由を盗まれても気づかない”

 

という、ローマの民を指した

グラックスのセリフには、

 

つい、過剰に反応してしまい、

 

 

“権力の影に隠れた卑怯者などに

頭を垂れる気はない”

──そんなマキシマスの生き様には

大いに共感して、

 

 

リサの歌う『Now We Are Free』は

鎮魂歌のように心に響き、

 

いくらか癒されたりもしたが、

 

 

 

私が、尾崎のような心境で過ごした

一年の話はさておき、

 

 

 

やはり、

 

ラッセル・クロウの話になるだろうが、

 

 

“相手を怒らせないクラクションの

鳴らし方”を伝授している場合か?

 

とでも言いたくなるような、

 

最近の“髭もじゃ系おじさん”期
とは違って、 


まだ“怒りよりも誇り”を

演じていた時代とでも言おうか、

世界をまだ信じているような
眼差しが印象的で、


その眼差しで、

オスカーを獲ったと言っても
過言ではないばかりか、

どんな壮大な戦闘シーンよりも
この映画を支えているように思え、

 

 

コモドゥスに対する復讐心を

顕にする場面や、
 

 

「L.A.コンフィデンシャル」の

パドならブチ切れていたであろう、

 

妻子の死を侮辱される場面ですら、

 

 

“怒りよりも誇り”を選んだ男の

静かな気高さを感じ、

 

 

それは、

体制維持目的のみで動く軍隊への

苛立ちを覚える、

 

現代の冷笑的将軍、


「ウォー・マシーン: 戦争は話術だ!」

のボブ・ホワイトとは、

 

根本から異なる怒りであるのは

言うまでもなく、

 

 

さらに、

 

マキシマスの表情には

どこか優しさと人間臭さが滲み、

 

 

過酷な環境下でも

僅かなユーモアに反応し、


妻子を模した人形が

再び我が手に戻ったときなどには、

なんとも嬉しげな輝きを

見せたりもする──


こうした佇まいや表情の

一つひとつが、

 

今のラッセルではもはや見られない、

かつて彼が演じた、

 

“人間味を伴った誇り高き英雄像”

を呼び覚まし、

懐かしさとともに

深く心に刻まれもしたが、

 

 

そんな英雄像と、

 

“キレやすい俳優”という評価が

絶妙に重なるからだろうか、

 

 

この作品を観ていると、

 

メル・ギブソンが演じた

あのマックス・ロカタンスキーが、

 

自然と思い浮かび、

 

 

息子を撥ねられ、

 

妻子をも奪われるあたりや、
 

 

マキシマスの意識が朦朧とした

場面でのカメラワーク、
 

 

そして、

 

死が見せ物として消費される

コロッセウムの光景などは、
 

どこか“サンダードーム”

を思わせる気配があって、

 

 

「マッドマックス」の世界と

不思議と重なって見え、

 

 

マキシマスがコモドゥスに勝利したあと、

 

もし生き延びていたら、

 

 

失われたものを補うための、

 

“新しい生き方”を

彼が模索しないかぎり、

 

 

家族はすでに亡く、

 

復讐も果たした後、

 

 

彼は戦いの動機を失い

ただ生き延びるだけの存在──

 

 

つまりは、

 

マックスのような男に

なっていたのではないかと思われ、

 

“死によって救済される英雄”

ではなく、

 

“ 生き延びても救われない英雄”

としてその像を結び、

 

 

そうしてみると、

 

鎮魂歌のように響く

『Now We Are Free』も、
 

どこにも届かない祈りのようで侘しく、

 

 

さらに、音楽で言えば、
 

 

「マッドマックス」のブライアン・メイ

(クイーンのではなく)よろしく、
 

音がシーンを引っ張るかのような

ハンス・ジマーのスコアも圧巻で、
 

 

緊張感や感情の高まりを

力強く支えていて、

 

 

戦闘シーンでのオーケストラには

聞き覚えのある響きを感じるが、
 

「パイレーツ・オブ・カリビアン」にも、

 

ジマーが関わっていたことを知り

腑に落ちて、

 

 

 

“聞き覚えのある響き”で

思い出されるのは、



作中で何度か口にされる、

 

“偉大なローマ”という
どこか皮肉を帯びた言葉であり、


ローマという都市そのものが、
 

“理想の墓標”であり続けている

という逆説を孕み、


人間が信じていた価値が

すでに崩壊した世界で、
 

それでもなお理想を探し続ける

眼差しが描かれているうえに、



やはり「グラディエーター」

の映像美がそう思わせるのか、
 

 
どこか「グレート・ビューティー/

追憶のローマ」とも響き合っていて、

 

 

「グレート・ビューティー」は、

 

フェリーニの「ローマ」への

オマージュとも言われているが、

 

 

「グラディエーター」での

“親指のジェスチャー”も、

 

同じような意図を感じさせ、

 

 

結局のところ

ローマを扱ったどの作品も、


“偉大なローマ”という、

 

共通の幻をめぐっている点が
非常に興味深かった。

 

 

 

 

 

情緒不安定な役どころを演じさせると、
 

 

彼か、ジョン・サヴェージの

右に出る者はいないと思われる、

 

ホアキン・フェニックスが、
 

 

マキシマスの宿敵コモドゥスを

見事なハマり役で演じており、

 

 

近年の「ボーはおそれている」

を観ても明らかなように、
 

現在でも、

 

情緒不安定な役どころに磨きを

かけ続けているあたりが彼の凄みで、


 

女子供を車で追い回すような

迷走を見せている、

 

ラッセル・クロウとは違っていて、


 

 

“迷走”どころか、

 

どこか肝の据わった落ち着きを感じさせ、
 

皇帝役のリチャード・ハリスよりも

むしろ堂々として見えたのが、

 

 

コモドゥスの姉ルッシラを演じた

コニー・ニールセンで、

 

 

やけに場に馴染んでいると思えば、

 

彼女は大のローマ史マニアだという

話もあるようで、なるほどと納得し、

 

 

“本物が混ざっているぞ!”という点では、

 

「アマデウス」のジェフリー・ジョーンズを

ふと思い起こさせ、

 

 

 

ルッシラの息子、

 

ルキウス・ウェルスを演じたのは、
 

「アンブレイカブル」で

主人公の息子役を演じた、


スペンサー・トリート・クラークであり、



コロッセウムでマキシマスに

興味津々な場面では、

 

まるで、

 

“ブルース・ウィリスとどっちが強い?”

とでも訴えるような視線で、

 

思わずニヤリとしてしまい、

 

 

 

かたやマキシマスの息子を演じたのは

ジョルジョ・カンタリニで、

 

 

「ライフ・イズ・ビューティフル」では
ロベルト・ベニーニの笑いに守られたが、
 

 

ここではその幸運にも恵まれず、
 

ラッセル・クロウの誇りのために

命を落とす羽目になったのでは、
 

たまったものではなかっただろう

と思われ、

 

 

 

それに輪をかけるように

迷惑だったはずなのが、

 

その息子の母親、
 

すなわちマキシマスの妻を演じた、


本作の監督リドリー・スコットの

妻でもあるジャンニーナ・ファシオで、

 


まさかラッセル・クロウから

“鼻水まみれ”の洗礼を受けるとは、
 

思いもよらなかっただろうことは

言うまでもなく、
 

 

夫リドリーが、

 

「エイリアン」の現場に戻ったかの

ようなその光景を、

 

どんな思いで見届けたのかと思うと、

 

また彼も気の毒に感じられたが、

 

 

 

しかし、なんと言っても

キャスト面で特筆すべきは、

 

プロキシモを演じたオリヴァー・リードが、

 

 

あれほど存在感のある役どころにも

関わらず、

 

作品の完成を待たず

撮影途中で急逝してしまったことで、

 

 

しかも、大酒飲みであった彼は、

 

役柄の暴れっぷりのまま

心不全で逝ったというのに驚かされ、

 

 

さらに、

 

そのオリヴァーと同世代で活躍し、

 

今作ではオリヴァーとの

ツーショットシーンもあった、

 

カシアス役の

デヴィッド・ヘミングスが、

 

 

数年後、別作品の撮影中に

心臓発作で亡くなったという話には、


思わず因縁めいたものを感じずには
いられず、

 

 

あのツーショットには最期の気配が

宿っているようにも思え、

 

 

デヴィッド・ヘミングスの

代表作の余韻がそうさせるのか、

 

まるでアルジェント作品の

一幕を見ているかのようだった。

 

 

 

 

 

マキシマスの本来の目的は、

 

家族のもとへ帰ることだった。


しかし、家族を失ったことで、

 

その代理目的として“復讐の物語”が

表向きの筋として描かれ、

   
裏では、死によってのみ帰郷を果たす、

 

“帰郷譚”としても構成されているのが

心憎く、


復讐も成し遂げられ、

 

死による帰郷も果たされる──

 

 

この二重構造だけでも十分に

観客を深いカタルシスで満たすのだが、



さらにラストで浮かび上がるのは、

 

マキシマスが死ねなかった

もう一つの理由、

 

 

それは、

 

“前皇帝の理想を実現する”

という使命である。



もし皇帝役がオリヴァー・リード

であったなら、

 

 

彼の圧倒的な存在感が

常に“使命”を意識させ、

 

 

物語の表層である復讐と帰郷の感情に、

 

観客が没入できなくなって

しまうだろうが、

 

 

控えめなリチャード・ハリスを

皇帝役に据えることで、

 

その使命は静かに裏に隠され、

 

 

最後にすべてが繋がって、
 

復讐の達成、帰郷の実現、

理想の継承という、

 

三重のカタルシスが押し寄せる──

 

 

その腑に落ちる感覚は、

 

まるで「ブレードランナー」の

“一角獣のオチ”のようで、

 

 

緻密に仕組まれたリドリーの仕掛けに

思わずぞくりとし、

 

 

作品賞受賞の必然性にも頷かされた。