
さらに、宏樹は1人で話し続ける。
「品川に着いたら、何線に乗ろうか?」
宏樹は、ずいぶんと考え込んでいる。
「夏に俺んちに来たときは、何線で来たの?」
「確か、湘南電車と言っていたような気がする」
「横須賀線だよ、よし、きょうは東海道本線で行こう」
「東海道って、新幹線だけかと思っていました」
「うわ、ガッカリさせないでくれる?」
宏樹は嘆いている。普段、利用しない都会の交通網には、私はお手上げである。宏樹は、水色のトレーナーの上にスタジアム・ジャンパーを羽織っている。車内は暑くて、眼鏡が曇るといって、トレーナーの襟ぐりに眼鏡のつるを片方かけた。私の視力は1.0未満であるが、眼鏡が必要なほど悪くはない。でも、夏の初日のことを思い出した。
「1日目に、ヒロくんのお父さんに海を案内してもらった日は、玄関から外に出て、石の階段を降りて行ったら、車が1台停まっていたのよ。海に行くから私はショートパンツを履いていたんだけれど、車内の人が変な目つきでこちらを見ているから、なにさ、変な奴と、無視して車を通り過ぎようとしたら、はい、この車に乗ってって、お父さんに扉を開けられて、私は、ぶっとびました」
「それ、俺のことか?」
「そう。一度、家の中でヒロくんと挨拶しただけで、顔を覚えてもいなくて、車内は暗いし視力も自信がなくて、まるきりわからなかった」
宏樹は左手で額を抱え込み、うつむいてしまう。
「乗せて行ってやろうと思って、見ていたんじゃないか」
「はは・・・、ごめん」
横浜駅に到着する。駅ビルの中を2人で歩く。コーヒー専門の店を見つけて、細いらせん階段を上る。
「今、職場で地震の実験をやっているんだ」
宏樹が上着を脱ぎ、仕事の話を始める。2人で、モカを注文する。
「4メートル四方のテーブルに針のようなものを挿して、振動させて反応を調べている」
「なんだか人類の滅亡を予期しているみたい」
「しばらくは、地震の実験が続きそうだな。騒音の実験よりいいけど」
「どうして」
「頭が痛くなるほど、うるさい思いをする」
「大変なのね」
小さなテーブルの上には、食塩の入った瓶が置いてある。喫茶店でも食塩が必要なのかなと考えていると、
「持って帰っちゃ、駄目だよ」
と宏樹が言う。砂糖の瓶もあるので、
「こっちの方が、量が沢山入っているわね」
と、食塩より一回りも大きい砂糖の瓶を指差すと
「ったく、量があれば何でもいいと思っているな」
と注意される。