カフェ『AQUA』㉑さらなるトラブル【小説】  | makoto's murmure ~ 小さな囁き~

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さらなるトラブル

 

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翌日、AQUAはいつもと変わらない朝を迎えた。
マスターもママさんもいつも通り店に立っているし、特に変わった様子もない。

「マスター、昨日は大丈夫でしたか?」
「ああ」

 

早出で勤務に入った大地くんだけが心配そうに声をかけたのに対し、マスターは言葉少なに答えた。
ママさんもなぜかニコニコしていた。
なんだか不思議なくらいいつもと一緒。
病院の周辺にはカメラを持った人がいまだにいてザワザワしているのに、AQUAには穏やかな時間が流れている。
そのことにホッとした。
海斗くんもこれからしばらくは噂の的になるかもしれないけれど、時間が経てば収まるだろう。
奏さんが言っていた『いい薬』って事かもしれない。
ママさんの笑顔も、そんな気持ちの表れのように思えた。

「青葉ちゃん、昨日は遅かったの?」
「え、ああ、そうですね」
 

朝から目の下に隈を作って現れた私に、ママさんは夜更かしだと気づいたらしい。

「しばらくお別れだものね。しかたないわね」
「はい」

一旦実家に帰ると約束してしまった私は、今日の夜この町を離れる。
その寂しさから、昨日は遅くまで飲んで奏さんや優子さんと語り尽くした。

「奏の店にいたの?」
「ええ」
私が他に飲みに行く店なんてないことは、マスターも知っているくせに。

「そうか。奏、変わった様子はなかった?」
「え?」
それはどういう・・・

「昨日ね、拓人くんから連絡があって、いたずら電話の犯人がわかったらしいの」
 

マスターの方を見つめる私に、ママさんが教えてくれた。

「本当ですか?」
テーブルを拭いていた大地くんも寄ってきた。

「ええ。店のお客さんだったらしいわ。奏ちゃんも名前を聞いてわかるくらいに常連の人」
「それって、」

身近な人が犯人だったなんて、奏さんにはかなりショックなんじゃないだろうか。

返って見ず知らずの人だった方が気が楽なのに。

「ストーカーですか?」
「うん。そうかもね」
やっぱり。

「松本先生にも相談して、警察に届けるって話になっているし、奏にも勝手に動くなとは釘を刺したんだけれどね」
不安そうなマスター。

奏さんの性格ならおとなしくはしていないかも。
何しろ男前だから、相手を呼び出して説教でもしそうな気がする。

「大丈夫よ。奏ちゃんだって、危険とわかっていて相手に接触するようなことはしないわ」
ママさんらしい見解。
でもなあ・・・

***

カランカラン。

「いらっしゃいませ」

ああ、噂をすれば。

「いらっしゃい奏ちゃん」
「おはようございます」

あれ?
ほぼスッピンの顔にマスク姿の奏さんが、右手をかばうように左手で抱えている。

「奏さん、血が出てますよ」
薄いオレンジのブラウスに血がにじんでいる。

「うん、転んじゃって」
「本当ですか?」

もし転んだんならもう少し服も汚れているだろうし、腕だけ怪我をするなんておかしい。
それに、チラッと見えたブラウスの右腕の部分は、真っ直ぐにまるで刃物で切られたように裂けていた。

「手当てをした方が良くないですか?」
「大丈夫。消毒して包帯を巻いておくから」
 

大地くんも声をかけるが、カウンター席に座り見えないように右腕を隠してしまった。

「大地くん、悪いけれど診てやってくれる?消毒を持ってくるから」
そう言って奥に消えていくマスターを
「えー、いいのに」
奏さんはブスッとした顔で見つめている。

「傷口、見せてください」
奏さんの隣に座った大地くんが、右腕をつかんだ。

「本当に大丈夫だから。消毒も自分で出来るし、コーヒーだけ飲んだらちゃんと家に帰って寝るから」
ギュッと拳を握りしめ、近づかないでってオーラ全開の奏さん。

どうしたんだろう。なんだか様子がおかしい。

「お願い、マスターの入れたコーヒーが飲みたいだけなの。そうすればきっと眠れるから・・・お願い」

嘘。
奏さんが泣いている。

「奏ちゃん、大丈夫よ」
ママさんが小刻みに震える奏さんの背中に手を当てる。

「これ、転んだんじゃありませんよね?」
ブラウス越しに傷口を見ていた大地くんの声に、私もママさんも固まった。

なんとなく想像はしていた。
でも、
「病院に行った方がいいと思います」
「そんなに悪いの?」
「うんーん」
大地くんの困った顔。

「刃物の傷は縫った方が治りも早いし、傷口も綺麗につくから」
消毒を持って戻ってきたマスターは、難しそうな顔で奏さんを睨んでいる。

へー、そうなんだ。って、刃物の傷?

「奏、病院に行ってこい」
珍しく強い口調のマスター。

「本当に」
大丈夫だからと言いかけた奏さんに、
「いいから、行けっ」
叱りつけた。

マスターって奏さんには強く言えるのよね。

「青葉ちゃん、悪いけれどついて行ってくれる?」
「え、私ですか?」
「うん。こいつ1人だと逃出しそうだから」

確かにそうだけれど・・・

「頼むよ」
私に向けるマスターの表情は、いつものように穏やかだった。

「わかりました。行きましょう、奏さん」
「・・・」

マスターに一喝されたからか、奏さんは抵抗しない。
私も拒否する理由もなく、奏さんと2人道路を渡って病院の救急入口へと向かった。

***

重い足取りの奏さんと2人、救急外来へ。
まだ昨日の余韻があり、普段と違うザワザワした感じが消えない。

時刻は朝の8時前。
まだ外来が始まっていないから、救急でしか受診できないんだけれど・・・

「あれ、青葉ちゃん?」
「あ、どうも」

時々ランチに来てくれる看護師さんに声をかけられた。

「どうしたの?」
「え、えっと」
どう説明しようかと困っていると、

「うっかり手をケガしてしまって」
奏さんが答えた。

どれどれと看護師さんが傷口を見ている。
その目つきがだんだんと険しくなっていくのを見て、私の方が緊張した。
傷口を見てはパソコンを叩き、また傷口を見る。
その顔から笑顔は消えていた。

「どうしたんですか?」
診察室から出てきた年配の看護師さんに聞かれた。

「不注意で切ってしまいました」
はっきりと答える奏さん。

でも、絶対におかしい。
利き腕だし、明らかに刃物の傷だし、どうやったって不注意で切れるはずがないのに。

「本当のことを言ってもらわないと、治療は出来ませんよ」
脅し気味に詰め寄る看護師さんを、
「師長」
最初に対応した若い看護師さんが止めている。

「場合によっては警察に届ける義務がありますし、健康保険だって事件性のあるケガにはすぐに問い合わせが入るんです。黙っていてもしょうがないんですよ」
口調は強いけれど言っていることはもっともで、私は何も言えなくなった。

「さあ、どうしたケガか教えてください」
師長さんが腰をかがめ、視線を合わせて聞いてくる。
それでも、
「本当に、自分でしたんです」
うつむいたまま、奏さんは小さな声で言った。