日が大分暖かくなりましたね。

各地で桜が見頃を迎えているのではないでしょうか。

私は今年は徒歩通勤にしているので、通勤経路にある桜並木を例年よりたっぷりと堪能しています。


桜を見ていると、私は、あるものを連想してしまいます。


人間ロケット「桜花」です。



大戦末期に投入された有人ロケット。

生きた人間が誘導装置として組み込まれ、艦艇に体当たり攻撃を行う必死の特攻兵器。


無論、私は本物の桜花を知りません。

それは私が生まれる遥か前に起きたこと。

ですが、一度知ってしまうと、決して頭から離れなくなる衝撃的な過去。


今日は「桜花」について、少し話していきたいと思います。


(桜花の左側面。着陸装置も外付けの武装もなく、とてもシンプルなシルエット。)

まずは「桜花」について。

桜花の試作が開始されたのは1944年8月16日。
終戦までちょうどあと一年という時でした。

1944年というと、7月にはサイパン、8月にはグアムが玉砕。
これにより、B-29が日本本土を行動圏に納め、11月にはマリアナ諸島からの本土攻撃が始まるという、日本にとって危機的な状況でした。

迫り来る米空母機動部隊を退けなくてはなりませんが、熟練の搭乗員は長い戦いで消耗し、航空部隊は機体の性能でも搭乗員の練度でも、そして数でも後手をとる、絶望的な状況。

更に、米空母機動部隊の艦載機を潜り抜けたとしても、空母を守る防空艦には、VT信管を装備した多数の砲が備えられています。

VT信管とは、砲弾そのものに搭載されたレーダーで目標を探知して自動的に爆発する対空弾です。
それまでの時限式の砲弾に比べて、圧倒的な効果を持ちます。

日本の通常の爆撃機や攻撃機では、これらの防空網を突破することは困難でした。

戦力で劣る場合、奇襲をかけることは常道ですが、米軍の防空網はそれを許しません。

米軍は空母の前提にレーダーを搭載したピケット艦を多数配備しているため、日本の航空機が空母に近づく前に探知し、通報し、事前に戦闘機を展開し待ち受けることができます。

よって、奇襲はほぼ不可能な状況でした。

正面から戦うならば、相手が対処可能な数を越える数で挑まねばなりません。「飽和攻撃」です。

しかし、当然ながら数でも負ける。


奇襲ができない。


数もない。


ならば、必要なものは「速度」です。



来ると分かっていても、対処のしようのない目標はどうにもなりません。

よって、ロケット兵器が考案されるのは当然だったのでしょう。

しかし、ロケット兵器を艦艇に命中させるためには、どうしても終末誘導のための装置が必要でした。

それが可能なのは、当時、人間だけでした。

最初から特攻兵器が考案されたわけではないようです。

元々は陸軍が、遠隔操作・誘導可能な対艦ミサイルのはしりのようなものを計画していたようです。

しかし、当時の日本の技術では、とても実用できるものではなかった。

迫り来る危機の中、技術の進歩を待つ余裕はなく、現状では人間が誘導する他ないと、開発者は考えたようです。

勿論、「特攻専用兵器」の開発は、各部から異論がでたとか。
「そんなものに誰を乗せるのか」と多くの人が言ったそうです。
しかし、考案者はこう答えました。

「私が乗っていきます。」

そして、桜花の開発は始まります。


桜花に搭載されたのは三本の火薬ロケット。

一本の燃焼時間は僅か9秒。

とても自走できるものではなく、母機である一式陸攻から切り離された後の、「自由落下を加速する」程度のものでした。

しかし、その速度は水平飛行で時速648km。
急降下突入時で時速804km、最大速力は時速983km。

零戦52型の最高速力が時速565km、F6Fが時速599kmだそうなので、一度発射されれば、戦闘機での迎撃は困難なことがわかります。

また、部材は貴重な合金を極力減らすため、一部に木材を使用しました。

日本側としては予算の都合の問題でしたが、小型で木材を使用しているため、レーダーへの映りは悪く、結果として米軍頼みのVT信管の作動も難しくなりました。

桜花は米軍から、対処時間と命中確率という、二つの武器を奪ったのです。

一方で、操縦安定性は以外にも高かったといいます。

通常、飛行機は加速すると揚力を得るため、機首が浮きます。

そのため、零戦などで急降下の体当たりを試みようとすると、降下したいのに浮いてしまうというジレンマがあり、命中させることが難しかったとか。
ならば水平飛行で突入しようとすれば、速度が遅くなり、相手に対処時間を与えてしまいます。

しかし桜花は急降下しても浮き上がりが少なく、スムーズに突入できたとか。

一度発射されれば有効な迎撃ができず、ただ外れることを祈るばかり。

しかし、精密に誘導され高確率で命中するロケット。

その先端に搭載されるのは、1200kgという大量の炸薬。

桜花に期待が抱かれることは、仕方のないことだったのではないでしょうか。


元、桜花の搭乗員というおじいちゃん数名と、会合で同席し、話す機会がありました。

いずれも90過ぎには見えない元気なおじいちゃんでした。

そのうちの一人が、こんなことを言っていました。

「いずも(海自の現役DDH)の空母化ね、あれは是非とも進めなきゃなりませんよ。」

あー、はいはいそうですね。( ̄ー ̄)

と、流していました。

空母は悲願だから~とか言うのかな、と。

「空母は侵略の兵器だと言う人もいますが、そうじゃない。戦いたいのではないのです。ナメられちゃいけません。ナメられたらやられる。戦わないためには、ナメられないように力を着けなきゃならんのです。」

何も言えませんでした。

開戦前の日本は、欧米からナメられていたと聞きます。
そのために、開戦に踏み切らざるを得ない状況を作為されたとしたら。
もし、日本が強いと認識されていたなら、ABCD包囲網やハルノートには至らなかったとしたら?

かつて決死の作戦を覚悟したおじいちゃんの言葉が、深く刺さりました。


桜花が空を駆けたのは、昭和の時代。

昭和はとうに過ぎ去り、平成の時代は、様々な不安はあったものの、無事戦争に巻き込まれることなく平和に終わろうとしています。

そしてまもなく訪れる、「令和」の時代。

時が流れるほど、過去の記憶は薄れていきます。

戦争を体験した日本人は、近い将来いなくなることでしょう。

そんな中、誰が戦争の悲劇を伝えていくのか。

誰が伝えることができるのか。

そう思ったとき、「桜花」という名前に込められた想いに考えを馳せました。

「桜花」という名前は、その兵器が何物であるか秘匿するために、自然名からつけられたと言われます。

しかし、私は思うのです。

春になれば、日本各地で桜が咲きます。


その桜の花を見たときに、人々が心の片隅に「桜花」を思い出して欲しかったのではないかと。

日本人に深く浸透した桜のイメージと、壮絶な「桜花」のエピソードは、一度聞けば忘れることはできないでしょう。

決死の作戦に臨む若者達のことを、せめて、忘れないでいて欲しいと。

そんな願いが込められているように思えてならないのです。

(練習機T-5と先代のKM-2)

先日、予科練の直系に当たる、航空学生の入隊式があり、約70名の若者が入隊しました。

彼らは近い将来、海鷲として全国の空を駆け、日本の海を守ります。

私は来賓だった上司のお付きとして、幸運にもこの式典に同席することができました。

彼らを祝福し、全国の部隊から航空機が祝賀飛行に駆けつけました。


希望に満ちた瞳で空を見上げる彼らは、とても輝いて見えました。


彼らは平成最後の飛行機乗りにして、令和最初の飛行機乗り。

彼らの将来の無事を願わずにはいられません。


「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」


戦争を再度体験するようなことは、なんとしても避けたいものです。


桜を見ると「桜花」を思い出す。


桜花が空を駆けた事実は変わりません。

しかし、その記憶を切っ掛けに人々が歴史を振り返り、将来の戦争を抑止することに繋がれば、先人達へのせめてもの慰めになるのではないでしょうか。