創立者須藤いま子先生を偲ぶ

 

前回からの続きです。

須藤先生はとても体の小さなおばあちゃんでした。

背中が曲がっていて、いつも両手を後ろの腰で組んでいた。

 

いつ会っても穏やかで優しくしゃべりかけて下さいました。ニコニコ

母チサンの話では、若い時に大変な病気に罹り背中が曲がってしまったらしい。

聞いていました。

 

世間をまだまだ知らない私は、近所のおばあちゃんとして気軽に世間話をして過ごしていました。

その頃から三階建てのビルは昼間は静かだけれど夜になる頃から電気が

電球電球付くことに気がつきました。電球電球

 

昼間働いて、夜に須藤先生に裁縫技術を教えてもらいに

女性が来ることもわかりました。きっと自立したいと考えていた方々がいたのでしょう。

そして、その女性たちの教育を若い時から全身全霊で進めていたのです。

須藤先生は生涯独身で、お子さんも持ちませんでした。

でも、自分の生きる意義を持ち、女性の教育に全身全霊でしていたことは

今の私なら理解できます。すごい女性と関わっていたのだなと。。。真顔真顔真顔

 

この食器棚は、その頃の我が家の居間で使われていたツネ婆の花嫁道具の一つ

あ~~絶望絶望私が張ったその頃のシールが(笑)

まだ現役で実家にあります。レトロー目がハート目がハート萌え~(あってる?笑)

 

 

母チサンは華道の先生を自宅でしていたこともあり須藤先生に

須藤技芸の生徒に生け花を教えてほしいと頼まれて受けることにしました。

私が中学生の頃で、私も自宅から花器や剣山を運び、水の用意をして、

生徒さんが帰るまで教室の後ろで一緒に居ました。

終わったら片付け、家まで全て運ぶのが私の手伝いでした。満月夜の街ブーケ1

 

 

その時も嬉しそうな顔をしてニコニコ生徒さんを見ている須藤先生に会っていました。

 

二階の教室でしたチューリップガーベラ

 

須藤先生がそこに住んでいたのかは知りません。

でも、

「こんばんわー」

と、声をかけると「つねまちゃん、ご苦労様。ありがとう」と言いながら

いつものように腰の後ろに手を組んでニコニコしながら三階から降りてきてました。

 

その頃に私は須藤先生が高校を作った人だと知りました。

その当時は群馬女子高校と呼んでいました。

 

私は、え、、、?

高校って個人で造れるものなの!?!?!?

と、凄くビックリしたのを憶えています。

 

笑い笑い笑い

 

須藤技芸のビルも無くなっています。先生も亡くなっています。この話を知っているのももう私しかいません

私も歳を取り始めました。

 

高崎健大高崎高校と名前が変わった今だからこそ、その礎になった須藤先生のことは、

誰に向かってでもなく書き残しておきたいと思ったのです。

 

 

先生!母チサンが一昨年そちらに逝きましたよ。

もう、見つかりましたか?

会えましたか?

おしゃべりは出来てますか?