晴れ女? | 妄想とリアルと

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腐女子で色々リハビリ中の漫画家がまったりとぽつぽつと自由に綴ってます。

昨日、大好きなママを無事に送り出してきました。

在宅医療のお世話になっていたから12月4日の退院から亡くなるまでママは切望していた家で過ごしました。
1ヶ月間、濃密な家族関係が築けたと思います。

ママは抗がん剤の苦しさを知っていたから断然拒否という意向で、もう一度抗がん剤を使って頑張って長生きして欲しいという私の本来の希望は言えませんでした。

長生きして欲しいと言う希望は俺たちのエゴだよね、と弟も言いましたし。
肺がんはそうとう苦しむと聞いていたし、主治医の先生も抗がん剤を使わないと癌は進行していき、食欲も無くなり、どんどん衰弱していく、と。

在宅治療がいよいよ厳しくなってきたらみんなに迷惑かけるからホスピスへ入りたいというママの希望で、パパと私で受診していましたが、順番を待つ間にママは旅立ちました。

ママは苦しむ事なく家で家族に見守られて眠ったまま逝き、私たちも息を引き取る最期の瞬間までママの傍にいることができたことはみんなの希望通り。

急激に弱ってきたママに主治医の先生は、内服が難しくなってきたら薬を全部やめてもいい、医療麻薬の坐剤で対応しましょう、と。

ここで、ああ、もう手立てはないのかと絶望と諦め。
毎日、ママの体調が違うので私たちも期待したり絶望したりの繰り返し。
20種類以上の薬を飲む順番に分けてママに飲ませるのが私の役目でした。

こんなに飲んだらお腹いっぱいになるからご飯がちょっとしか食べられなくてもしょうがないね、と笑って言いましたが、こんなにお薬を飲んでも一向に良くならない緩和ケアってなんだろうと思った時もありました。

でも先生も看護士さんたちも本当によくやってくれました。
ベッドで髪を洗うことも、お下の洗浄もマッサージも心のケアも。
感謝しかありません。

家で過ごす最後の4日の夜。
もう明日にはママはここにいない、と思うとつらくて悲しくてどうしようもなくてパパに全部思いの丈を吐き出してしまった。

パパは両親を見送った経験はあるけど、自分の妻を送り出す経験をすることに恐怖を感じていたのに。
そんなパパに辛い気持ちをぶつけて、でもパパは私を褒めてくれました。
よくやったよ、ママは〇〇に感謝してたよって。
自分の妻、私にとってはママだけど、パパにとっては愛する女性、元は恋人です。
ママが退院してからパパはママの側で眠るようになりました。
送り出した今もママの部屋の隣で。

ママを葬儀会館に運ぶ1月5日のお昼頃、なんと玄関の鍵が壊れて私たちはパニックに。
行きたくない、とママが言ってるのかもとパパが言ってるそばで私は急いで鍵屋さんに電話。
無事に直りました!

ママの妹である叔母が来てくれたのでいっぱい慰めてもらいました。
叔母もこれで全ての兄弟が旅立って一人になってしまったのに。

お通夜の会館に着くと受付の女性がお悔やみを言ってくれました。
でもその顔が同級生に似ていたので思わずそう言いましたが、結果、やはり同級生でした‼︎
なんていう縁!
ママが繋いでくれた縁がまたここに😭

煙草を吸う親族が外で吸っていたら、寒いから中でどうぞ、ほんとはダメなんですけどね、と。
翌日の告別式で別件の仕事だったのに、上司に言ってうちの担当をしてくれてよく動いてくれました。
会館でかかっていた曲が気に入らなくて、ママの好きなシャンソンやカンツォーネをかけたい、という希望も叶えてくれました。
また母校の先生が今は住職さんになってこの会館に仕事でよく来るということ。
高校教師の時は熱血体育教師のあの先生が‼︎

もう泣いたり笑ったり忙しい2日間。
私の友達もいっぱい来てくれて、ママの思い出を語ってくれて、ママの顔を見て褒めてくれました。
綺麗で安らかでシワがないママの綺麗な顔。

遺影の写真は私がチョイス。
ママが大好きなイタリアに行った時の写真で、サングラスにバイザー、アクセサリーもばっちりでポーズを取ってる。
背景処理はせず、イタリアの雰囲気を活かして、スナップ写真みたいに。

普通の遺影ってなんか寂しいんだもん。

出会った頃はおしゃれで都会的で近寄り難かった、と叔父も言ってたくらいにママは綺麗で気位が高くちょっと怖かったですが、全力で家族兄弟を愛して、自分のことよりも他人を気遣ってくれる凄い人でした。

お通夜の時に殊の外泣いたのは、私のピアノの先生でもあり、ママにとっては妹のように可愛がり大好きだった女神のような人がキーボードを持って来てくれたこと。

ママがリクエストしていた曲を弾いて歌ってくれました。
歌い終わったあと、「練習していた時は泣いてばっかで歌えなかったけど、最後まで歌えたー!」と涙をポロポロ。
ママへの言葉が書いてある楽譜を棺に入れました。
声が出しづらくなっていたママだけど、きっと一緒に歌っていたよ!
ママね、歌がとても上手だったの。
裁縫も料理も歌も上手。
頑張り屋で思い立ったが吉日、という行動の速さ。
社交的だったから、シャイなパパはずいぶんと助けられていたと思う。

1月6日。

とうとうママが灰になる日。
読経が終わらないで欲しい、とどれだけ願ったか。
棺の蓋を閉める前にお花でいっぱいにした。
パパとママは結婚式を挙げていなかったから私が贈ったウェディングベールを頭の周りに巻いて、私の絵、家族からの手紙、リーナの代わりの小さなトイプーのぬいぐるみ、好きだったレーズンサンドなど納めました。
ほんとはでっかくて衣が薄くて身が厚いエビフライなんだけど。

最後にママのおでこにキスしてまた家族になろうね、また私を生んでね、とお願いしました。






小さく喉仏が残ったので、陶器で出来た小さな可愛いお地蔵様の中に納めました。

骨は少なく、骨粗しょう症っぽかったみたい。
炉の中にママの棺が入った時、泣き崩れてしまって誰かに支えてもらった。

親族以外にお骨を拾ってくれた数十年来のママのお友達のうちの誰かだったかも。
よく覚えてなくて申し訳ないけど。

ママが亡くなった日もお通夜も告別式も凄く良い天気で暖かった。
ママは晴れ女かもね。
今日は曇りで寒いんだよ。

これからママは49日間かけて極楽へ行くための修行に出るそうです。
頑張り屋だからソッコーで修行を終わらせそうだね、なんて言葉も出るようになってました。

お友達も親族も帰ってしまうと寂しさがドドドドって押し寄せて夜になると寂しくてたまらない。
ママのベッドに残った髪の毛すらも愛おしい。
ママの宝箱に私と弟の母子手帳、初めて切った髪の毛と爪、わんこのリーナの乳歯、怒濤の最狂戦士 睡魔くんの2巻が出てきてまた泣く。

朝起きてきて廊下にお線香に匂いがあると現実なんだとまた泣く。

もう顔パンパンでまぶたも重くてどんだけ泣いたらいいんだろうとまた泣ける。

パパに「もうパパも泣いていいよ」って言ったけど、ちゃんと泣いたかなぁ。
頑固な九州男児だけど大丈夫かなぁ。

パパと弟とリーナを大切にしてあげてねって遺言はちゃんと守るからね、ママ!
あと天国に行ったら約束通り幸せにしてください。
今までも十分幸せだけど、今はママがいなくなってつらいから。

これからもずっと愛してる、尊敬してる、大好き‼︎‼︎‼︎‼︎
77年間、お疲れ様。





長文になりましたが、私の記録のブログなのでご容赦ください。