今日は午後から「寿会(老人会)」の人たちに話を聞くことができた。
ちょうど寿会の人たちが「法話会」というもので集まりがあり、
住職のお話を聞くと言う場があったので、
その後に少しだけ時間をもらうことができた。
軽く自己紹介をし、
今回の話し合いの趣旨を説明した後、
さっそく話を伺うことにした。
「白峰で生活する上で問題点や改善策などはありませんか?」
………
しばらくの沈黙が続いた。
誰も口を開こうとせず、
ただ僕らのことを睨みつけるような目でじっと見つめる老人たち。
寿会の人たちが言いたいことはその態度で十分に理解できた。
「この人たちに話しても何の意味もない」
その無言のプレッシャーの前に
僕らはただただ何も言えず、
自分達の「エゴ」の押し付けをしているような感じになってしまった。
寿会の人たちからは僕らがやっていることが
単なる僕らの「自己満足」のように見えるだろう。
確かに僕らの行動の中に「自己満足」という部分が
全くないと言えば嘘になるかもしれない。
だけど僕らがこのように行動を起こしている理由の大部分は、
この数ヶ月間白峰という場所で生活をし、
この地域の人たちの優しさや知恵などに触れ、
そして、この地域がなくなってしまうのは寂しいという思いだ。
少なくとも都市部に住み、
その地域を全く知りもしないくせに
「地域活性化が必要だ」と言って
その方法論ばかりを押し付けたり、
「あの地域ではこんなことで成功した」と言って
成功事例ばかり紹介したりしている人たちとは違う。
又、その地域に生まれ育ち、
その地域で一生を過ごす人とも思いが違うので、
その部分が地域の人たちにとっては
僕らの「エゴ」や「自己満足」として捉えられるのだと思う。
その辺の微妙な思いを汲んでくれた寿会の副会長さんによって、
なんとかお年よりたちも重い口を開いてくれたのでしたが、
出てくることはほとんど全て悲観的なことばかりでした。
「結局年寄りには何もできない」
「何をやっても無駄だ」
僕らにはそのつぶやきのような嘆きが
希望のない未来を呼ぶ呪文のように聞こえた。
「じゃあもっと年がいったら白峰を出ますか?」
話を少し変える為こんな質問をしてみると、
寿会の人たちを代表して一人のおじいさんがその思いを口にした。
「みんな昔からずっと白峰におって、
みんなが顔見知りで気心しれとるし、
いまさら町に行って周りのこと誰も知らんようなとこ住みたない。
けどな、年いって動けんようなったら
他人に迷惑かけるわけにもいかんし、
息子や娘のおる町に行かなあかんかもしれんな。
でもやっぱし遠くの親戚よりも近くの他人やで。」
この言葉にみんなが一斉にうなずき、
それまで硬かった表情がいっきにほころんだ。
「生きる上で一番幸せなことは?」
どこにでもあるようなこんな質問の答えを
この老人会の人たちに教えてもらった気がした。
お金がなくても物がなくても家族がいて、
そして何より気心知れた友がいれば
これ以上幸せなことはない。
こんなことは以前本かなんかで読んで、
「分かっていた」ことかもしれない。
だけど今日この日この時に
初めて「解った」のだと思う。
